SSブログ
『教行信証』「信巻」を読む(その147) ブログトップ

如来回向の欲生心 [『教行信証』「信巻」を読む(その147)]

(6)如来回向の欲生心

さらに「横に四流を超断せよ」のあと、すぐ「まさしく金剛心を受けて」とつづきますが、実際はその間の文が略されています。親鸞としてはこの「金剛心を受けて」という文言を是非とも出しておきたかったのに違いありません。金剛心はわれらが発すものではなく、如来からやってくるのを受けると言われていることに着目しているのです。もう一点言っておきますと、「正信偈」に「行者まさしく金剛心を受けしめ、慶喜の一念相応して後(行者正受金剛心 慶喜一念相応後)」とありますのは、この文がもとになっています。

二つ目の文は「序分義」に出てくるもので、韋提希がわが子・阿闍世の悪逆に遇い、「真心徹倒して苦の娑婆を厭ひ、楽の無為を欣ひて、永く常楽に帰す」ことになった段を注釈しています。このように韋提希が金剛の志を発すことになったのも、韋提希の力によるのではなく、如来の回向であるということが言われています。善導のことばは、その表面を見る限り、みずから金剛の菩提心をもつことの大切さを説いているようにしか読めませんが、しかしそのことばの端々に、われらの菩提心とは言うものの、実は如来回向の菩提心であることが匂わされていることを親鸞は感じているのです。

三つ目の文もまたそれを言うがために「定善義」から引かれています。そもそも金剛とは無漏すなわち一切の汚れた煩悩がまじっていないことを意味するというのです。としますとわれら煩悩具足の凡夫が金剛の菩提心を発すことができる道理がありません。かくしてわれらに菩提心があるとすると、それは如来から回向されたものであり、だからこそそれは「金剛のごとし」であるわけです。如来のもとに生まれたいという欲生心は、実は如来の欲生心がその源であるとしますと、すなわち、如来がわれらの往生を願ってくださっているから、われらが往生を願うのであるとしますと、その願いがかなうことに微塵の疑いもありません。

これが金剛の志ということです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』「信巻」を読む(その147) ブログトップ