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ひとへに親鸞一人がため [正信偈と現代(その11)]

(11)ひとへに親鸞一人がため

 「南無阿弥陀仏」は主観的であってはじめて意味をもつのですが、しかしそれは「南無阿弥陀仏」が普遍的であることを否定するわけでは決してありません。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」と親鸞が言うとき、彼は本願が生きとし生けるもののみなのためであることを否定しているのではありません。むしろ「親鸞一人がため」であるからこそ「生きとし生けるものみなのため」となるのです。どういうことか。
 親鸞が「ひとへに親鸞一人がため」と言うとき、彼は一切衆生を己れ一身に背負っています。それは、そのことばにつづく「さればそくばくの(そこばくの、著しく多くの)業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」ということばがおのずと物語っています。ここに「業」ということばが出てきます。これはもともと行為(カルマン)という意味ですが、われらの行為は因と縁により縦横無尽につながりあっていますから(縁起です)、あらゆる行為が個人的な行為であるとともに歴史的な行為という性格をもっていると言わなければなりません。
 ここから宿業の思想が出てきます。「よきこころのをこるも、宿善のもよほすゆへなり。悪事のおもはせらるるも、悪業のはからふゆへなり」(『歎異抄』第13章)。われらはこのような宿業の世界に生きているのだとしますと、「親鸞一人」がおこす「よきこころ」も、あるいは「悪事のおもはせらるる」ことも、一切衆生の業とつながっているのであり、その意味で親鸞は一切衆生の業を己れ一身に背負っているのです。そのような「そくばくの業をもちける身」である「親鸞一人」を「たすけんとおぼしめしたちける本願」であるということは、その本願は「ひとへに親鸞一人がため」であると同時に、「生きとし生けるものみなのため」であることは間違いありません。

                (第1回 完)

タグ:親鸞を読む
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