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定散の自心に迷ひて [『教行信証』「信巻」を読む(その8)]

(8)定散の自心に迷ひて


「自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す」ことを見てきましたが、次に二つ目の「定散の自心に迷ひて金剛の真信に昏し」という点です。まずことばの意味から。「定散の自心」とは「定善と散善の自力の心」ということで、定善とは禅定、散善とは修善という意味です。これは善導の『観経疏』に出ることばで、善導は『観経』に説かれる十六の観法の前十三観を定善、後の三観を散善と呼びました。いずれも阿弥陀仏とその浄土を「心におもい見る方法」で、定善とは「慮りを息めてもつて心を凝らす」こと、すなわち心を集中して雑念を払い仏と浄土を観ることで、散善とは「悪を廃してもつて善を修す」こと、すなわち心を一つのことに集中することはできないが、悪を止め善を修めることにより浄土往生を願うことです。


ここから分かりますように、「定散の自心」も「自性唯心」と本質的に同じで、阿弥陀仏と浄土をどこかにあるものとして、それを捉えようとしています。すなわち阿弥陀仏とその浄土を「力用」としてではなく「体」として見ているということです。さて、何であれ、それを「体」として見るとき、おのずから「見る主体」と「見られる客体」との分離が起こります。阿弥陀仏と浄土を「体」として見るときも、こちらに「見るわたし」がいて、あちらに「見られる阿弥陀仏と浄土」があります。かくして「わたし」が「阿弥陀仏と浄土」を見るというように両者が分かれてしまいます。これが自力の構図で、親鸞はそこを突いているのです。


では阿弥陀仏も浄土も「力用」であるとすればどうでしょう。「いのち、みな生きらるべし」という「ねがい」が「南無阿弥陀仏」という「こえ」として聞こえてきたとき、もう「わたし」と「阿弥陀仏と浄土」は分かれていません。そのとき「わたし」はすでに阿弥陀仏の心光に摂取不捨され、そして足下に浄土が現成しています。これが他力の構図で、親鸞が「金剛の真信」とよんでいることです。



タグ:親鸞を読む
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