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救いは如来の本願力による [「信巻を読む(2)」その34]

(10)救いは如来の本願力による

二つ目として「如来」とは何かという疑問があるでしょう。他の「人」の力で救われるのはよく分かるが、「如来」の力(本願力)で救われるとはどういうことかという問いです。この問いには如来を実体ととらえるべきではないと答えたいと思います。われらは如来と言われると、どうしても何か実体的なものをイメージしてしまいますが、そうではなく、ある「はたらき(仏教では用‐ゆう‐といいます)」を如来と言っているということです。先に親鸞のことばとして「他力といふは如来の本願力なり」とありましたが、これは如来という実体が本願力というはたらきをしているということではなく、本願力という救いのはたらきを如来とよんでいるのだと受けとるべきです。本願力という救いのはたらきとは別にどこにも如来は存在しないということです。

さてでは本題の、みずから救いを得ることができるか、それとも救いは如来の本願力によるしかないのかという問いです。救いを得る力をわれらがもっているか、それともそれは如来の本願力によるしかないのかということです。この問いを考えるときに鍵になるのは、救いの力は、それが正真正銘のものとすれば、無限の力でなければならないということです。先に、宗教的な救いとは、置かれている状況の如何にかかわらず、生きる安心があることだと言いました。どんな状況にあっても安心して生きることができること、これが救いですが、そのような救いをもたらすことができるのは無限の力でなければなりません。この場合は救うことができるが、この場合はできないというのでは本物の救いとは言えないからです。

このように見てきますと、われらにそのような力があるとは到底考えることができません。われらはあくまでも有限な存在だからです。宮沢賢治の詩に「東ニ病気ノコドモアレバ、行ッテ看病シテヤリ、西ニツカレタ母アレバ、行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ、南ニ死ニサウナ人アレバ、行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ、北ニケンクヮヤソショウガアレバ、
ツマラナイカラヤメロトイヒ」(「雨ニモマケズ」)とありますが、これをこのことば通りになしうる力がわれらにあるとはとても思えません。それこそ本願力とよばれる無限のはたらきというべきであり、かくして救いはわれらの力ではなく、如来の本願力によるという結論に至ります。


タグ:親鸞を読む
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