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三不三信のおしえ [「『正信偈』ふたたび」その85]

(6)三不三信のおしえ

道綽讃の後半4句です。

三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引

一生造悪値弘誓 至安養界証妙果

三不三信の誨(おしえ)慇懃(おんごん)にして、像末法滅おなじく悲引す。

一生悪を造れども、弘誓に値(もうあ)ひぬれば、安養界に至りて妙果を証せしむといへり。

道綽禅師は、三不三信の教えをねんごろに伝えてくださり、本願の教えは像法・末法・法滅の衆生を同じように導いてくださると説きます。

また、われらは一生涯悪をつくり続けても、本願に遇うことができさえすれば、浄土に往生して仏の悟りを得ることができると教えてくださるのです。

前半4句で、聖道の「万善の自力」と浄土の「円満の徳号」が対比され、末法の当今においては「ただ浄土の通入すべきこと」が示されました。そして後半に入り、まず第1句で道綽は「三不三信の誨」を慇懃に説いたと言われます。これはしかし曇鸞の『論註』に出てくるもので、道綽は『安楽集』にそれを引用しているのです。曇鸞はこんなふうに言います、「かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破す、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」と。その上でこう問うのです、「しかるに称名憶念することあれども、無明なほ存して所願を満てざるはいかん」と。そして、それには二つの理由があるとして、その一つにこの「三不信」を上げるのです。三不信とは「一つには信心淳(あつ)からず、存せるがごとし、亡ぜるがごときのゆゑに。二つには信心一ならず、決定なきゆゑに。三つには信心相続せず、余念間(へだ)つるがゆゑに」ということです。

三不信とは要するに真実の信心ではないということでしょう。称名憶念していても、依然として無明のなかにいて、時をむなしく過ごしてしまうのは何故かと言えば、そこにほんものの信心が伴っていないからということです。ほんものの信心がないというのは、本願と信心がひとつになっていないということです。本願と信心がひとつになっていないとは、本願が本願力としてわが身の上にはたらきかけているのを生き生きと感受していないということです。親鸞は「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せず」(「信巻」)と言いますが、名号を称えていても願力の信心を具していないがゆえに無明から抜け出すことができないということになります。


タグ:親鸞を読む
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