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是心作仏、是心是仏 [「信巻を読む(2)」その27]

(3)是心作仏、是心是仏

大慈悲心である信心が成仏の正因であると述べられたあと、それを裏づけるために『論註』と『観経疏』から引かれます。

『論の註』にいはく、「かの安養浄土に生れんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発するなり」とのたまへり。

またいはく、「〈()心作仏(しんさぶつ)とは、いふこころは心よくするなり。()(しん)是仏(ぜぶつ)とは、心のほかに仏ましまさずとなり。たとへば火、木より出でて、火、木をるることを得ざるなり。木をれざるをもてのゆに、すなはちよく木を焼く。木、火のために焼かれて木すなはち火となるがごときなり」とのたまへり

光明(善導)のいはく、「この心作仏す。この心これ仏なり、心のほかに異仏ましまさず」とのたまへり。以上

『論註』の一つ目の文は、『大経』の三輩段(願生者を上輩・中輩・下輩に分けて説く段)に、往生を願う人たちは、その行のありようによって三種類に分かれても、みな一様に「無上菩提の心を発(おこ)す」と言われていることを受けて、この無上菩提心こそ往生成仏の正因であると述べています。無上菩提心とは大慈悲心に他なりませんから、大慈悲心である信心があってはじめて往生成仏がかなうという趣旨の文としてここに引用しているのです。

次いで、信心が往生成仏の正因であることを明らかにするために『論註』から二つ目の文が引かれます。この文は、『観経』の定善第八観「像観」に「なんぢら心に仏を想ふ時、その心すなはちこれ(仏の)三十二相・八十随形(ずいぎょう)(こう)なれば、この心作仏す、この心これ仏なり(是心作仏、是心是仏)」とあるのを受けて、その「是心作仏、是心是仏」を曇鸞が注釈して述べているものですが、親鸞は「この心」を「信心」とみて、この文をここ引用していす。

三つ目の善導の文も、『観経』の「是心作仏、是心是仏」を曇鸞と同じように「われらの心とは別にどこかに仏がいるわけではない」ということだと解釈しています。


タグ:親鸞を読む
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