SSブログ

もろもろの衆生は、みなこれ如来の子なり [「信巻を読む(2)」その120]

(11)もろもろの衆生は、みなこれ如来の子なり

阿闍世はさらに偈で如来を讃えます。

諸仏の弟子(阿闍世のこと)、この語を説きをはりて、すなはち種々の宝幢(宝で飾られた旗ぼこ)ももつて 乃至 また偈頌(げじゅ)をもつて、しかうして讃嘆してまうさく、〈実語(仏の真実のことば)はなはだ微妙(みみょう)なり。善巧句義(ぜんぎょうくぎ、巧みなことばと意味)において、甚深秘密の蔵なり。衆のためのゆゑに、所有広博の言を顕示す。衆のためのゆゑに略して説かく、かくのごときの語を具足して、よく衆生を療す。もしもろもろの衆生ありて、この語を聞くことを得るものは、もしは信および不信、さだめてこの仏説を知らん。諸仏つねに軟語(やさしいことば)をもつて、衆のためのゆゑに粗(粗語、きびしいことば)を説きたまふ。粗語および軟語、みな第一義(第一義諦、真如実相のこと)に帰せん。このゆゑにわれいま、世尊に帰依したてまつる。如来の語は一味なること、なほ大海の水のごとし。これを第一諦(第一義諦)と名づく。ゆゑに無無義(無義ではない)の語(みこと)にして、如来いま説きたまふところの、種々無量の法、男女大小聞きて、同じく第一義を獲しめん。無因また無果なり(涅槃に因も果もない)。無生また無滅なり(涅槃は常住である)。これを大涅槃と名づく。聞くもの諸結(結は束縛、もろもろの煩悩)を破す。如来一切のために、つねに慈父母となりたまへり。まさに知るべし、もろもろの衆生は、みなこれ如来の子なり。世尊大慈悲は、衆のために苦行を修したまふこと、人の鬼魅(きみ、魔もの)に着(くる)はされて、狂乱して所為多きがごとし(世尊が衆生のために慈悲行をされる様子は、人が魔ものに狂わされてさまざまなことをするのに似ている)。われいま仏を見たてまつることを得たり。得るところの三業の善、願はくはこの功徳をもつて、無上道(道は菩提、この上ない悟り)に回向せん。われいま供養するところの、仏・法および衆僧、願はくはこの功徳をもつて、三宝つねに世にましまさん。われいままさに獲べきところの、種々のもろもろの功徳、願はくはこれをもつて、衆生の四種の魔(煩悩魔、死魔、五陰魔、天魔)を破壊(はえ)せん。われ悪知識に遇うて、三世の罪を造作(ぞうさ)せり。いま仏前にして悔ゆ。願はくは後にまた造ることなからん。願はくはもろもろの衆生、等しくことごとく菩提心を発(ほっ)せしめん。心を繫(か)けてつねに、十方一切仏を思念せん。また願はくはもろもろの衆生、永くもろもろの煩悩を破し、了々に仏性を見ること、なほ妙徳(みょうとく、文珠師利菩薩)のごとくして等しからん〉と。


タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

われいまいまだ死せずしてすでに天身を得たり [「信巻を読む(2)」その119]

(10)われいまいまだ死せずしてすでに天身を得たり

ここでもうひとつ注目すべきなのは、阿闍世が「われいま仏を見たてまつる。ここをもつて仏の得たまふところの功徳を見たてまつり、衆生の煩悩悪心を破壊せしむ」と述べていることです。阿闍世ははじめて「ほとけのいのち」に遇うことができ、「無根の信」が生まれたのですが、それはそれだけで終わるのではなく、「衆生の煩悩悪心を破壊」するという還相のはたらきをするということです。つまり往相(自分の救い)は往相だけで終わるのではなく、かならず還相(衆生の救い)につながるということです。阿闍世は「われつねに阿鼻地獄にありて、無量劫のうちにもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もつて苦とせず」とまで言いますが、この思いはどこから生まれてくるのでしょう。

その答えが「耆婆、われいまいまだ死せずしてすでに天身を得たり。命短きを捨てて長命を得、無常の身を捨てて常身を得たり。もろもろの衆生をして阿耨多羅三藐三菩提心を発せしむ」ということばにあります。天身とか長命とか常身と言われているのは「ほとけのいのち」のことで、いまは阿闍世という名札をつけた「わたしのいのち」を生きていますが、その「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であるということです。「無根の信」をたまわることでそのことに気づかせてもらえたのです。「わたしのいのち」のままで、すでに「ほとけのいのち」を生きているのです、いや、「ほとけのいのち」が「わたしのいのち」を生きていると言うべきでしょう。

としますと「ほとけの願い」と「わたしの願い」は根っ子のところでひとつであると言わなければなりません。「わたしの願い」は人それぞれにさまざまでしょうが、そのもっとも奥深いところに「ほとけの願い」が息づいています。それは「いのち、みな生きらるべし」という願いであり、第十八願でいいますと「もし(あらゆる衆生が)生れざれば(往生できなければ)、正覚を取らじ」という願いです。ここから「われつねに阿鼻地獄にありて、無量劫のうちにもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もつて苦とせず」という驚くべきことばが出てくるのです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

無根の信 [「信巻を読む(2)」その118]

(9)無根の信

ここにはひとつの飛躍があります。これまで釈迦の説法を聞いていた阿闍世が突然こう言います、「われいまはじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る」と。伊蘭の種子からは伊蘭樹が生ずるしかありませんが、その伊蘭の種子から栴檀樹が生じたというのです。そしてこう言います、「伊蘭子はわが身これなり。栴檀樹はすなはちこれわが心、無根の信なり」と。わが煩悩の身から「無根の信」が生まれたということです。釈迦の説法を聞かせてもらうことで、わが心にその気(け)もなかった信心が生まれたというのですが、それが具体的にどういうことかははっきりしません。そこで阿闍世の身に何が起こったのかを考えておきたいと思います。

結論を先に言いますと、釈迦の説法を通して、ある「気づき」が阿闍世に生まれたということです。阿闍世の「気づき」とは何かといいますと、自分は我執という囚われのなかにあるという「気づき」です。その囚われのなかで父王を殺害するというとんでもないことをしてしまったということ、そのことに気づかされたのです。さて我執という囚われのなかにあることに自分で気づくことは金輪際できません。囚われの気づきは自分「に」起こりますが、自分「が」起こすことはできません。その気づきは、囚われのなかからではなく、囚われの外から起こされるということです。阿闍世が「世尊、われもし如来世尊に遇はずは、まさに無量阿僧祇劫において、大地獄にありて無量の苦を受くべし」と言うのはそのことです。

これは囚われのなかにある「わたしのいのち」に遇う(気づく)ことができたということですが、それは取りも直さず、その気づきをもたらしてくれた「ほとけのいのち」に遇う(気づく)ことができたということに他なりません。これまではただひたすら「わたしのいのち」をわが力で生きていると思っていたところに、それを超えた「ほとけのいのち」があることに気づかされたのです。そしてその「ほとけのいのち」に生かされていることにはじめて気づいたのです。これが「われいまはじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る」ということです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

はじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずる [「信巻を読む(2)」その117]

(8)はじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずる

釈迦の説法を受けて阿闍世が応答します。

〈世尊、われ世間を見るに、伊蘭子(いらんし、伊蘭の種子、伊蘭は美しい花をつけるが耐え難い悪臭を放つ)より伊蘭樹を生ず、伊蘭より栴檀樹(せんだんじゅ、「栴檀は双葉より芳し」と言われる香木)を生ずるをば見ず。われいまはじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。伊蘭子はわが身これなり。栴檀樹はすなはちこれわが心、無根の信なり。無根とは、われはじめて如来を恭敬(くぎょう)せんことを知らず、法・僧を信ぜず、これを無根と名づく。世尊、われもし如来世尊に遇(もうあ)はずは、まさに無量阿僧祇劫(気の遠くなるほど長い時間)において、大地獄にありて無量の苦を受くべし。われいま仏を見たてまつる。ここをもつて仏の得たまふところの功徳を見たてまつり、衆生の煩悩悪心を破壊(はえ)せしむ〉と。仏ののたまはく、〈大王、善いかな善いかな、われいまなんぢかならずよく衆生の悪心を破壊することを知れり〉と。〈世尊、もしわれあきらかによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、われつねに阿鼻地獄にありて、無量劫のうちにもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もつて苦とせず〉と。その時に、摩伽陀国(まかだこく、マガダ国、阿闍世王の国)の無量の人民(にんみん)、ことごとく阿耨多羅三藐三菩提心(あのくたらさんみゃくさんぼだいしん、この上ない菩提を願う心)をおこしき。かくのごときらの無量の人民、大心を発するをもつてのゆゑに、阿闍世王所有(しょう)の重罪すなはち微薄(みはく)なることを得しむ。王および夫人(ぶにん)、後宮采女(こうきゅうさいにょ、王妃に仕える女官)ことごとくみな同じく阿耨多羅三藐三菩提心をおこしき。その時に、阿闍世王、耆婆に語りていはまく、〈耆婆、われいまいまだ死せずしてすでに天身(浄天身、浄天は聖者のことで、聖者の身ということ)を得たり。命短きを捨てて長命(じょうみょう)を得、無常の身を捨てて常身を得たり。もろもろの衆生をして阿耨多羅三藐三菩提心を発せしむ〉と。乃至

阿闍世が自分に廻心がおこったことを述べる感動的な場面です。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

我執という囚われ [「信巻を読む(2)」その116]

(7)我執という囚われ

まず阿闍世の父王殺害は「有にあらず」ということ。これは文字通り「存在しない」ということではなく、幻のようなもの、夢のようなものということでしょう。すなわち阿闍世が父王を殺害したのは、我執という囚われのなかにあって、いわば無我夢中になしたことであり、それから醒めてみれば、「あゝ、あれは狂乱状態のなかでやってしまったことだ」と感じられるということです。「慚愧の人はすなはち有にあらず」と言われるのは、慚愧の人すなわち狂乱状態から醒めて己のやったことがはっきり見え、その罪の重さにおののく人にとって、己の行いは我執という狂乱が引き起こしたことであると気づいているということです。

次に阿闍世の殺害は「無にあらず」ということですが、これは「無慚愧のものはすなはち無にあらずとす」とあることから分かりますように、これはまだ我執という囚われに気づいておらず、父王を殺害することも自らの意志により選択したことであり、その結果として王の座につけたのだと思っています。「果報を受くるもの、これを名づけて有とす」というのはそのことで、所期の果を得るために意図的になしたことですから、これは紛れもなく己の行いとして有ると思っているということです。かくして、我執の狂乱状態から醒めた人にとっては「有にあらず」ですが、まだそこから醒めていない人としては「無にあらず」ということになります。

では「またこれ有なり」とはどういうことでしょう。阿闍世は幸い囚われの状態から醒めることができ、そこからふり返って、あれは我執という狂乱が引き起こしたことであると気づいていますが、しかし、だからと言って自分がなしたことであるには違いなく、その罪は自分にあると感じています。そして慚愧の念のなかで、すべての責任を自分で負おうとしています。これが「またこれ有なり」ということです。さて、このように思えたとき、阿闍世に不思議なことが起るのですが、それが次の一段で述べられます。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

有にあらず無にあらずして、またこれ有なり [「信巻を読む(2)」その115]

(6)有にあらず無にあらずして、またこれ有なり

釈迦の説法の最後になります。

大王、たとへば涅槃は有にあらず無にあらずして、またこれ有なるがごとし。殺もまたかくのごとし。非有・非無にしてまたこれ有なりといへども、慚愧の人はすなはち有にあらずとす。無慚愧のものはすなはち無にあらずとす。果報を受くるもの、これを名づけて有とす。空見の人(あらゆるものは実体がなく空であると知った人)はすなはち有にあらずとす。有見の人(あらゆるものは実体であると考える人)はすなはち無にあらずとす。有有見のもの(有見に執着する人)はまた名づけて有とす。なにをもてのゆゑに。有有見のものは果報をうるがゆゑに。無有見のもの(有見のない人)はすなはち果報なし。常見の人(常住であると悟っている人)はすなはち非有とす。無常見のもの(常見のないもの)はすなはち非無とす。常常見のもの(常見に執着する人)は無とすることを得ず。なにをもてのゆゑに。常常見のものは悪業の果あるがゆゑに、このゆゑに常常見のものは無とすることをえず。この義をもつてのゆゑに、非有・非無なりといへども、しかもまたこれ有なり。大王、それ衆生は出入の息に名づく(呼吸するものを衆生という)。出入の息を断つ。ゆゑに名づけて殺とす。諸仏、俗に随ひて、また説きて殺とす〉。乃至 

よく呑みこめない言い回しがたくさん出てきて一筋縄ではいきません(『涅槃経』はそのようなことが多いのではないかと感じます。その点、『大経』や『観経』、また『小経』は、ことば遣いが難しいということはあっても、論旨に曖昧なところはありません)。しかしこれまでの流れの中においてみれば、全体として言わんとしていることをつかみ取ることはできます。ここはここまで釈迦が説いきたことをまとめる位置にあり、阿闍世の父王殺害をどう見ればいいかということについて述べられます。それが「有にあらず無にあらずして、またこれ有なり」ということばです。阿闍世の父王殺害はあったとも言えず、なかったとも言えないが、しかし阿闍世が父王を殺害した事実は厳然としてあるということです。どういうことでしょう。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

夢のうちに五欲の楽を受くるがごとし [「信巻を読む(2)」その114]

(5)夢のうちに五欲の楽を受くるがごとし

「殺もまたかくのごとし。凡夫は実とおもへり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり」という言い回しが繰り返され、それを魔術ややまびこなどさまざまな譬えによって明らかにしようとしています。いちばん分かりやすいのが最後の夢の譬えではないでしょうか。夢のなかにある人は、そこで起こっていることを唯一の現実だと信じて疑いませんが、実際は夢の中での出来事にすぎないように、人を殺すということも、その狂乱状態から醒めてみると、夢の中の出来事であるかのように感じられるということです。狂乱状態にあるときは、それがただ一つの現実であるとしか思えませんが、そこから醒めると、夢から覚めた人のように、「あゝ、あれは身心が狂乱した状況のなかで起こったことなのだ」と気づかされるのです。

そのとき狂乱状態というのは我執という囚われが引き起こしたものであることに気づいています。われらはみな我執という囚われのなかにあるのですが、そこに何かきっかけとなることが起りますと、身心が狂乱状態となり、思いもかけないことをしでかしてしまうのです。しばしば引き合いに出すことですが、『歎異抄』第13章に「わがこころのよくて殺さぬにはあらず」という親鸞の印象的なことばがあります。われらが人を殺さなくて済んでいるのは、わが心が善いからではなく、ただそのきっかけ(これが縁です)がないからだけであるということです。それを裏返しますと、阿闍世が父王を殺してしまったのは、彼の心が悪いからではなく、そのきっかけとなることがあったからです(提婆達多の唆しがその一つでしょうが、その他にもさまざまな縁があったに違いありません)。

われらはみな我執という囚われのなかにあり、何かきっかけとなることがあれば、それがとんでもない狂乱となって姿をあらわすのですが、だからと言って、われらの責任はないということにはなりません。どころか、その根っ子に我執があることに気づくとき、われらには激しい慚愧の念が起り、重い罪の意識に苦しめられることになります。しかしそのことがわれらを救いの門に導いてくれるのです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

殺もまたかくのごとし。凡夫は実とおもふ [「信巻を読む(2)」その113]

(4)殺もまたかくのごとし。凡夫は実とおもふ

釈迦の説法は核心に近づいてきます。

大王、たとへば幻師(魔術師)の四衢道(しくどう、街の四つ角)の頭(ほとり)にして、種々の男女・象・馬・瓔珞・衣服(えぶく)を幻作するがごとし。愚痴の人はおもうて真実とす。有智の人は真にあらずと知れり。殺(せつ)もまたかくのごとし。凡夫は実とおもへり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、たとへば山谷(せんこく)の響きの声(やまびこのこと)のごとし。愚痴の人はこれを実の声とおもへり。有智の人はそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実とおもへり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、人の怨(あだ)あるが、詐(いつわ)り来りて親附(しんぷ、親しげに近づく)するがごとし。愚痴の人はおもうてまことに親しむとす、智者は了達(はっきり知る)してすなはちそれ虚しく詐(いつわ)れりと知らん。殺もまたかくのごとし。凡夫は実とおもふ、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、人鏡を執りてみづから面像を見るがごとし。愚痴の人はおもうて真の面とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実とおもふ、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、熱のときの炎(かげろうのこと)のごとし。愚痴の人はこれはこれ水とおもはん、智者は了達してこれ水にあらずと知らん。殺もまたかくのごとし。凡夫は実とおもはん、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、乾闥婆城(けんだつばじょう、蜃気楼のこと)のごとし。愚痴の人はおもうて真実とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実とおもへり、諸仏世尊はそれ真にあらずと了知したまへり。大王、人の夢のうちに五欲(色・声・香・味・触の五境に対する欲、または財欲・色欲・飲食欲・名欲・睡眠欲の五欲)の楽を受くるがごとし。愚痴の人はこれをおもうて実とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実とおもへり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、殺法(殺害の方法)・殺業(殺害の行為)・殺者(殺害する人)・殺果(殺害の結果)および解脱(それから逃れること)、われみなこれを了(さと)れり。すなはち罪あることなけん。王、殺を知るといへども、いかんぞ罪あらんや。大王、たとへば人主ありて酒を典(つかさど)れりと知れども(酒のことは何でも知っているとしても)、もしそれを飲まざればすなはち酔はざるがごとし。また火を知るといへども焼燃せず。王もまたかくのごとし。また殺を知るといへども、いかんぞ罪あらんや。大王、もろもろの衆生ありて、日の出づる時において種々の罪を作る、月の出づる時においてまた劫盗を行ぜん。日月(にちがつ)出でざるにすなはち罪を作らず。日月によりて、それ罪を作らしむといへども、しかるにこの日月実に罪を得ず。殺もまたかくのごとし。乃至


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

王もと国を貪じて、この父の王を逆害す [「信巻を読む(2)」その112]

(3)王もと国を貪じて、この父の王を逆害す

釈迦の説法はさらにつづきます。

大王、衆生の狂惑におほよそ四種あり。一つには貪狂(とんきょう、貪欲による狂乱)、二つには薬狂(薬による狂乱)、三つには呪狂(しゅきょう、人に呪われることによる狂乱)、四つには本業縁狂(過去の業縁による狂乱)なり。大王、わが弟子のなかに、この四狂あり。多く悪を作るといへども、われつひにこの人、戒を犯(ぼん)せりと記せず。この人の所作、三悪(三悪趣-地獄・餓鬼・畜生)に至らず。もし還つて心を得ば(正気にもどれば)、また犯といはず。王もと国を貪じて、この父の王を逆害す。貪狂の心をもつてためになせり。いかんぞ罪を得ん。大王、人の耽酔(たんすい、酔いしれる)してその母を逆害せん。すでに醒悟(しょうご、酔いがさめる)しをはりて心に悔恨(けこん)を生ぜんがごとし。まさに知るべし、この業また報を得じ。王いま貪酔せり。本心のなせるにあらず。もし本心にあらずは、いかんぞ罪を得んや。

これはわれらの悪が狂乱あるいは耽酔のなかで起こることを指摘しています。それを囚われということができるでしょう。われらは我執という囚われのなかにあることから否応なく悪をなしてしまうということです。これが狂乱あるいは耽酔ということですが、だからと言ってわれらに悪の責任がないということにはなりません。囚われのなかにずっぽり入っているときは責任の意識などありませんが、囚われに気づいたとき、われらには慚愧の念が生まれ、そして責任の思いがおこってきます。「すでに醒悟しをはりて心に悔恨を生ぜん」と言われるのがそれで、阿闍世にはこれが起っているのです。

ここでは「王いま貪酔せり。本心のなせるにあらず。もし本心にあらずは、いかんぞ罪を得んや」と言われますが、これまた誤解を生みかねないと言わなければなりません。阿闍世が父王を殺害したのは我執という囚われのなかにあったからであるのは間違いありませんが、しかし囚われていたのであり、したがって本心ではないから、罪がないということにはなりません。現に、囚われていたことに気づいたとき、激しい罪の意識に襲われます。そしてその罪の意識、慚愧の念こそが阿闍世を救うことになるのです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

因果ということ [「信巻を読む(2)」その111]

(2)因果ということ

ここで釈迦が述べているのは、父王・頻婆娑羅は無辜の仙人を殺害するという罪を犯しており、その報いとして阿闍世に殺害されるという報いを得たのだということで、先に三人目の大臣・実徳が父王にはもともとわが子に殺されるという業縁があったのだから、阿闍世に罪はないと言っていたのとよく似ています。大臣たち(そしてその後ろにいる六師外道たち)は因果そのものを否定して、阿闍世に罪がないとするか(月称、悉知義、吉徳)、あるいは因果を認めた上で、しかしそれを運命と捉え、結果的に阿闍世には罪がないとするか(蔵徳、実徳)のいずれかでしたが、ここであらためて因果について考えておきたいと思います。

すぐ前のところで言いましたように、仏教はあらゆる事象が縁起でつながりあっているとし、それを「これあるに縁りてかれあり、これ生ずるに縁りてかれ生ず」と表現します。「これ」を因とすれば「かれ」が果ですから、縁起は因果と同じであり、仏教は因果の教えであるとされます。さて注意が必要なのは、仏教の因果は、われらが普通に理解している因果とは根本的に異なるということです。普通の因果は、因が時間的に前で、果は後というように不可逆的ですが、仏教の因果の場合、因と果は時間を超えてつながっています。「これあるに縁りてかれあり」であるということは、同時に「かれあるに縁りてこれあり」ということであり、「これ」のあるところすでに「かれ」があり、「かれ」のあるところすでに「これ」があるという関係です。

そして普通の因果では、ある特定の因に対して、特定の果がおこりますが、仏教の因果では、あらゆるものがあらゆるものとつながっていて、そこに特定のつながりはありません。いまの場合、頻婆娑羅による仙人の殺害と阿闍世による頻婆娑羅の殺害はもちろんつながっていますが、しかしそれは無数のつながりのなかの一つにすぎず、それだけを取り出してそこに特定の因果応報があるかのように言うのは、仏教の因果を普通の因果と混同するものです。ここでの議論はそのような誤解を生みかねないものであることに細心の注意が必要です。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問