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信心すれば往生できる [「親鸞とともに」その34]

(2)信心すれば往生できる

それと同じように「信心すれば往生できる」という言い方は、「信心することがそのまま往生することである」という意味にも、また「いま信心することにより、のちに往生することができる」という意味にもとることができます。前者の場合、因である信心と果である往生が同時で、信心のあるところすでにつねに往生があるということですが(そして逆に、往生のあるところすでにつねに信心があります)、後者の場合は、まず信心があり、しかる後に往生があるということになります。われらが原因と結果ということばで言っているのは後者ですが、仏教の因果(因縁とか縁起と言われます)は前者の同時因果です。

さて「信じるだけで往生できるのですか」と問う人は、信心と往生を原因と結果の関係として理解しています、信心をすれば、のちにその結果として往生が得られるというように。これを裏返して言いますと、往生するためには信心しなければならないということになり、信心は往生のための条件ととらえられています。しかし「信心が往生の因である」というのは、信心のあるところすでに往生があるという意味です。本願を信じているということは、取りも直さず、もうすでに往生しているということですから、ここからは「信じるだけで往生できるのか」という問いは決して出てきません。

本願を信じることが往生の因であるということについて述べてきましたが、次に「帰っておいで」という本願のよびごえが聞こえることが本願を信じることに他ならないということについて見ていきましょう。前回に「南無阿弥陀仏」という名号が本願のよびごえであることを述べましたが、改めて名号はわれらが称えるより前に聞こえるものであることを確認しておきたいと思います。因幡の源左という妙好人に、あるとき「源左、たすくる(たすけるぞ)」というよびごえが聞こえ、源左はそれに「ようこそ、ようこそ」と応答したと伝えられますが、源左にとって「源左、たすくる」と聞こえたよびごえが「南無阿弥陀仏」です。


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はじめに [「親鸞とともに」その33]

第3回 聞こえるということ

(1)はじめに

「帰っておいで」という「ほとけ」のよびごえが聞こえるということについて述べてきましたが、ここに浄土の教えが凝縮されていると言えます。そこで今度は「聞こえる」に着目したいと思います。浄土真宗では「信心正因」と言われます。本願を信じることが往生の正因であるということですが、この「信じる」というのが「聞こえる」ということに他なりません。本願を信じるとは、われらが本願に信心とよばれる何かをつけ加えることではありません。ただ本願のよびごえが聞こえてきて、それが胸にしみること、これが本願を信じることです。ですから信心正因とは本願のよびごえが聞こえることそのものが往生の因であるという意味です。「帰っておいで」というよびごえが聞こえることが、とりもなおさず往生するということです。

本願のよびごえ(親鸞のことばでは「本願招喚の勅命」)が聞こえることが本願を信じことであるということ、そして本願を信じることが往生の因であるという二つのことを言いました。まず後者の「信心が往生の因」ということについてもう少し述べておきたいと思います。よく「信じるだけで往生できるのですか」あるいは「念仏するだけで往生できるのですか」という疑問が出されます。これはいまにはじまったことではなく、浄土の教えが生まれた当初からずっとつきまとってきた疑問です。これは「往生ってそんなに簡単にできるものですか」という疑問ですが、ここには根本的なボタンの掛け違いがあります。その行き違いを生み出す元は「因」ということばです。

「信心が往生の因である」は「信心すれば往生できる」と言い換えることができますが、これは二通りに理解できます。一つは「信心することが取りも直さず往生すること」という理解で、二つには「信心することにより往生できる」ということです。金子大栄氏の分かりやすい例に置き換えますと、「人に親切すれば幸せになれる」ということばは、「親切することが取りも直さず幸せである」という意味と、「親切することにより幸せになれる」という意味の二通りの解釈が可能です。前者は「親切することそのものが幸せである」という意味で、後者は「いま親切をしておけば、のちに幸せがやってくる」という意味です。ボランティア活動することそのものが幸せというのと、ボランティア活動しておけばきっと幸せがやってくるというのとの違いです。


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よきひと [「親鸞とともに」その32]

(8)よきひと

それがもっとも分かりやすい形で示されているのが『歎異抄』第2章です。「往生のみち」を確認したいと、はるばる京までやってきた関東の弟子衆を前に親鸞はこう言います、「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と。これを見ますと、「『ほとけのいのち』に帰っておいで」というよびごえは、「よきひと」の仰せのなかからやってくることがよく分かります。「よきひと」の仰せは「念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」ですが、その声を通して「念仏してわれにたすけられまゐらすべし」という「ほとけ」のよびごえが聞こえてくるということです。

すぐ前のところで、「帰っておいで」という「ほとけ」のよびごえが聞こえますと、「あゝ、ありがたい」という思いが「はい、ただいま帰らせていただきます」という声となって出ていくと言いましたが、「よきひと」法然の仰せとは、この「わたしは『ほとけのいのち』に帰らせていただきます」という声に他なりません。親鸞は法然からこの仰せを受けて、そのなかから「わたしのもとへ帰っておいで」という「ほとけ」のよびごえを聞いたのです。「ほとけ」のよびごえは「よきひと」の仰せという衣をかぶってやってくるということです。このようにして「ほとけ」のよびごえを聞いた親鸞もまた、「わたしは『ほとけのいのち』に帰らせていただきます」と応答することになります。

では法然はどこから「ほとけ」のよびごえを聞いたのでしょう。法然には親鸞にとっての法然のように口づてに仰せをかぶることのできる師はいませんでしたが、しかし善導の書物がありました。法然は黒谷の経蔵において善導の『観経疏』の一節から「ほとけ」のよびごえが聞こえてきたのです。そこにはこうありました、「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに」と。法然にはこの一節から「わたしのもとへ帰っておいで」という「ほとけ」のよびごえが聞こえたのです。

(帰るということ 完)


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よびごえ [「親鸞とともに」その31]

(7)よびごえ

「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」から生まれてきて、また「ほとけのいのち」へと帰ると言いましたが、「わたしのいのち」として生きているときから、実は「ほとけのいのち」を生きているのです。ただその「ほとけのいのち」に「わたし」という名札をつけているだけのことで、「わたしのいのち」が終わるというのはその名札が外れるということに過ぎません。ところがわれらはどういうわけか「わたしのいのち」というものがそれ自体として存在していると思い込んでいますから、それはいずこより来りて、いずこに去っていくのかについて思い煩うことになります。ある人は無より来りて無に去っていくと言い、ある人は輪廻転生していくのだと言います。いずれにしても、いずこに去るのかという不安を抱えて生きていかざるをえません。

浄土の教えは、そのことについて「わたしのいのち」が生まれてきたもとの「ほとけのいのち」に帰っていくのだと言います。しかし、われらはそのことをどのようにして知ることができるのでしょう。「わたしのいのち」がそれ自体として存在していると思い込んでいるものが、どのようにして「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで、すでに「ほとけのいのち」であり、だから「ほとけにいのち」に帰っていくのだと気づくことができるのでしょう。それが先ほどから述べてきました「南無阿弥陀仏」で、これがそのことに気づかせてくれるのです。「南無阿弥陀仏」とは「帰っておいで」という不思議な声であると言ってきましたが、それは「おまえのいのちの故郷である『ほとけのいのち』に帰っておいで」というよびごえです。

このよびごえが聞こえてはじめて「ほとけのいのち」が「わたしのいのち」の故郷であり、またそこに帰っていくことに気づくのですが、さて、このよびごえはどこからやってくるのでしょう。「ほとけのいのち」からとしか考えられませんが、「ほとけのいのち」とは「無量のいのち(アミタユス、阿弥陀仏)」ですから、そこから直接よびごえが届くことはありません。「無量のいのち」はわれら「有量のいのち」から超絶しています。としますと、その声はいったいどこからやってくるのでしょうか。


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ほとけのいのち [「親鸞とともに」その30]

(6)ほとけのいのち

「南無阿弥陀仏」はわれらが称える(発信する)ものと思い込んでいますが、それに先立ちむこうから聞こえてくる(受信する)ものであることが明らかにされました。まず「帰っておいで」という声を受信して、しかるのちに「ただいま帰らせていただきます」と発信するのです。そして「帰っておいで」という声が聞こえることそのものが救いであり(それが聞こえたとき「あゝ、生きていてよかった」と思います)、そのよろこびが「ただいま帰らせていただきます」という声となってほとばしり出るのですから、「南無阿弥陀仏」はあくまでもそれを聞受することに眼目があると言えます。信心正因と言われるのはそのことです。

さて、帰るべきところに帰ると言ってきましたが、いったいどこに帰るのか。それはわれらのいのちの故郷である「ほとけのいのち」に他なりません。

われらはみな「わたし」という「いのち」(それをつづめて「わたしのいのち」と言っていますが、前に詳しく見ましたように、「わたし」が所有する「いのち」ではありません)を生きていますが、その故郷は「ほとけのいのち」です。すぐ前のところで「命」という字について、それはもともと「お告げ、仰せ」という意味ですが、同時に「いのち」という意味でもあることにふれました。この二つはどのようにつながるのだろうと思いますが、どちらもどこかから「たまわる」ものであるという点で共通しています。天命とは「天から受けたお告げ」であるとともに「天から授かったいのち」という意味です。このように「いのち」は「授かる」もの「たまわる」ものであり、すなわち「ほとけのいのち」からやってくるのです。「ほとけのいのち」が「わたし」という「いれもの」にやってきて、「わたしのいのち」となるのです。

「ほとけのいのち」がたまたま「わたし」という「いれもの」にやってきて「わたしのいのち」となっただけのことですから、それはまたいつの日か「わたし」という「いれもの」から出ていくことになります。これが「わたしのいのち」が終わるときですが、そのとき「いのち」そのものが終わるわけではありません、もとの「ほとけのいのち」に帰っていくだけのことです。かくして「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」へと帰るという結論になります。


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帰命は本願招喚の勅命なり [「親鸞とともに」その29]

(5)帰命は本願招喚の勅命なり

「帰説」の説を悦(えつ)と読むときには「よろこぶ」の意となり、税(さい)と読むときには「くつろぐ」の意となりますから、帰という字には、至るべきところに至って「よろこび」、また「くつろぐ」という意味があるとするのです。そこから親鸞は「帰説(きえつ)」に対して「よりたのむなり」と注を入れ、「帰説(きさい)」には「よりかかるなり」と左訓しています。かくして帰という字の意味内容が豊かになりましたが、これで終わりではありません、大事なことはこの後です。すなわち「悦(えつ)」と読み「税(さい)」と読んだ「説」は、また「告(つぐる)なる、述(のぶる)なり、人の意を宣述する」ということであると言います。帰とは、帰るべきところに帰り、「よろこび」、「くつろぐ」ということだけではなく、そうするように「告げる」こと、「述べる」ことが含まれているというのです。

それがさらに「帰命」の「命」の意味として取り出されます。「命」を漢和辞典で調べますと、これはもともと「人を集めていいつける」という意味であるとありますが(命は「いのち」でもあることについては、後で考えたいと思います)、ここではそれが「業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計(はからう)なり、召(めす)なり」と言われているのです。これらはみな如来がわれらに来たれと呼びかけることを示しており、「業」とは如来の「おこない」を意味し、「招引」は如来がわれらを「招き引き入れる」こと、「使」は使役で如来の命を使者に伝えさせるということ、「教」は文字通りわれらを「教える」こと、「道」は「言う」こと、「信」は「たより」で、「計」は「はからい」、そして「召」は先の「招引」と同じです。

このように帰命とは、まずはわれらが如来に帰する(帰るべきところに帰る)ことを意味しますが、しかしそれに先立ち如来からわれらに帰するよう命じられている(告げられ、述べられている)ことが明らかにされるのです。かくしてこう結論されることになります、「ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり」と。帰命とは本願がわれらを招き喚ぶ「こえ」であるということです。


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南無阿弥陀仏 [「親鸞とともに」その28]

(4)南無阿弥陀仏

それを論じているのが『教行信証』の「行巻」です。親鸞はまず善導の「六字釈(南無阿弥陀仏の注釈)」を引きます、「南無といふは、すなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑに必ず往生を得」(『観経疏(観無量寿経の注釈書)』)。これは、当時(隋・唐の時代)、「南無阿弥陀仏」と称えることで往生できるという浄土の教えは根拠がないという批判があったのを受けて、善導がそれに答えて「南無阿弥陀仏」と称えることにはどのような意味があるのかを述べているものです。その批判の眼目は、「南無阿弥陀仏」というのは往生を願うだけで行がないという点にあったのですが、善導は「南無阿弥陀仏」には願も行もそろっているから往生できると応答しているのです。

それにしても善導の「六字釈」は簡略にすぎて、その意味がよく伝わらない嫌いがありますので、親鸞がそれをさらに注釈します。まず「南無といふは、すなはちこれ帰命なり」についてこう言います、「帰の言は、至なり、また帰説(きえつ)なり、説の字は、悦の音(こえ)なり。また帰説(きさい)なり、説の字は、税(さい)の音なり。悦税二つの音は告(つぐる)なる、述(のぶる)なり、人の意(こころ)を宣述するなり。命の言は、業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計(はからう)なり、召(めす)なり。ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり」と。このように親鸞は帰命を「帰」と「命」に分けて、その意味を明らかにしようとしているのですが、非常に複雑で一筋縄ではいきません。面倒でも一つひとつ読み解いていきましょう。

まず「帰」について「至」としているのは分かりやすいでしょう。漢和辞典を見ますと、帰は「女が嫁に行くことで、落ち着くべきところに落ち着く」こととあり(帰は「とつぐ」とも読みます)、至るべきところに至りつくことと理解できます。問題は次の「帰説(きえつ、帰悦)」と「帰説(きさい、帰税)」ですが、『詩経』にこれらの語があることから、帰には「悦」の意味と「税」の意味があることを探り出すという込み入った手続きをとっているのです。


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発信と受信 [「親鸞とともに」その27]

(3)発信と受信

「おかえり」が先で「ただいま」が後ということに関連して、J.デリダの「アロー」が思い出されます。彼はわれらが「アロー(英語のハローです)」と誰かに電話するのは、それに先立ってその人から「アロー」というよびかけがあるからだと言います。ある人から「アロー」という声が心に届いているから、それへの応答として「アロー」と電話するというのです。そういえば、山道を歩いているときなど、すれ違う見知らぬ人に自分でも思いがけずに「こんにちは」と挨拶することがありますが、それはそれに先立ってその人から「こんにちは」という声がひそかに聞こえたからではないでしょうか。それが聞こえなければ、あえて「こんにちは」と挨拶することはないでしょう。

「あらゆる発信は、返信である」というデリダのことばから、いよいよ親鸞に入っていくことができます。

「南無阿弥陀仏」とは「わたしは阿弥陀仏に南無いたします」と表明することです。「南無」とは「帰依する」あるいは「帰命する」という意味の梵語「namo」で、「阿弥陀仏」とは「無量のいのち」あるいは「無量のひかり」という梵語「amita()yusamita()bha)」ですから、「わたしは無量のいのち(無量のひかり)に帰命いたします」という意味になります。「帰命」の意味については、この後じっくりと親鸞の言うところを聞きたいと思っていますが、いまはとりあえず「(如来の)おほせにしたがふ、めし(召し)にかなふといふなり」(和讃に対する左訓)という親鸞のことばを上げておきましょう。如来の命にしたがうということです。

「南無阿弥陀仏」は名号といわれますから、単に名をあらわしているだけと思われがちですが、見てきましたように、これは「わたし」を主語とする文であることを改めて確認しておきたいと思います。すなわち「わたし」が「阿弥陀仏に帰命する」ことを表明しているのであり、名号とはいうものの、それ自体、名号を称えること、すなわち称名であるということです。さてここからが本題ですが、親鸞は、名号は称名(発信)であるより前に、聞名(受信)であると言います。「南無阿弥陀仏」はわれらがそれを称えるより前に、むこうから聞こえてくる聲であるというのです。


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帰っておいで [「親鸞とともに」その26]

(2)帰っておいで

「おかえり」は家に帰ってきたときの挨拶「ただいま」に対する応答です。「ただいま帰りました」という挨拶に「お帰りなさい」と返答しているのですが、関西では、それとは別に、出かけるときの「いってきます(昔は、いてさんじます)」という挨拶に対して「おはようおかえり」と返答します。「ご無事で早くお帰りになってください」という意味ですが、ことばの元来の意味からしますと、まずこの「おかえり」があり、それに対して「ただいま」がくるのが順当です。「おはようお帰りなさい」と言われて送り出されましたから、「ただいま、帰りました」と言って帰宅するということです。

「おかえり」があって、はじめて「ただいま」があるということ、ここには大事なことが隠されています。まず「おかえり」という「よびかけ」があって、それへの返信として「ただいま」があるということです。『夕焼け小焼け』で言いますと、子どもたちが「お手てつないで、みなかえろ」と思うのは、「山のお寺の、鐘がなる」からです。その「ご~ん」という音が「はやくおかえり」とよびかけているのです。鐘の音を通して、お母さんの「帰っておいで」というよびごえが聞こえているから、元気よく「ただいま」と家に帰っていけるのです。もしこの「帰っておいで」というよびごえが聞こえなかったら、「からすといっしょに、かえりましょう」という思いが起こることはありません。

「帰っておいで」で思い出すのは、フランクルの『夜と霧』です。1944年のポーランドの冬は例年より寒さが厳しく、またほとんど食べるものを与えられないことから、アウシュビッツの囚人たちはバタバタと死んでいきました。そんななか、ごく少数の囚人が生き残ったのですが(フランクルもその一人です)、その人たちを生き永らえさせた最大の力は、どこかから聞こえてくる「帰っておいで」の声であったとフランクルは証言してくれます。故郷で自分の帰りを待ってくれている人がいると思えるから、「よし、帰ろう」という気力がおこり、それが生きる力となったと言うのです。「帰っておいで」というよびごえが聞こえるから「帰ろう」という思いが生まれること、そしてその思いが生きる拠り所となることを教えてくれます。


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はじめに [「親鸞とともに」その25]

第2回 帰るということ

(1)はじめに

どこかで浄土の教えにもっともなじみのある文字は「帰」ではないかと述べました。その他に「願」とか「聞」とかいろいろあると思いますが、やはりこの「帰」という字に浄土の教えが凝縮されているような気がします。そして「帰る」ということばそのものに、人の心を温めてくれる力があるように思えてなりません。思い出すことがあります。どこかで読んだのですが、山折哲雄氏が日韓の文化交流の場で、ある韓国の仏教学者から「わたしは日本人が羨ましい、日本人には仏教がしみ込んでいるから」と言われたそうです。山折氏が「そうも思えませんが」と応じたところ、「いえいえ、日本には『夕焼け小焼け』という童謡があるではありませんか」と言われたというのです。

ぼくは「あゝ」と思いました。たしかに「夕焼け小焼けで 日がくれて 山のお寺の 鐘がなる お手てつないで みなかえろ からすといっしょに かえりましょう」という歌はわれらの心の深いところに沁み通ります。そして韓国の学者が見抜いたように、「みなかえろ」というところに仏教(浄土教)の心情が流れています。「手を取りあってみんな帰ろう、帰るべきところへ」―ここに仏教のエートスがあります。いつだったか、うつろな心を抱えて家の近くを散歩していた時、夕暮れの空を鳥たちが三々五々ねぐらに帰ろうと飛んでいるのを見上げては、「あゝ、かれらには安心して帰れるところがあるのだ」と思ったことを思い出します。

「おかえり」という挨拶のことばを考えてみましょう。前に「ありがとう」についていろいろ考えましたし、「ご縁がありましたら」という言い方についてもふれ、これらの日常の言い回しに仏教がしっかりしみ込んでいることを述べましたが、「おかえり」という何気ない挨拶のことばにもどこか仏教のにおいが感じられます。韓国の学者が言われるように、やはりわれわれ日本人には仏教がしみ込んでいると言えそうです。外国語には「おかえり」にぴったりのことばはなく、英語では“Welcome back.”という言い方はあっても、これは遠くから帰ってきたようなときにつかう感じで、毎日のあいさつでは“Hi.”で、これで「おかえり」も「ただいま」も兼ねているようです。


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