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浄土は心の大地 [「親鸞とともに」その85]

(9)浄土は心の大地

信心とは「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」に摂取不捨されることですが、そのときに目の前に開ける大地が浄土です。すなわち浄土とは、本願の摂取不捨というはたらきを大地としてあらわしたものと言えます。身の大地と心の大地ということですが、これまた二つの大地が別々にあるわけではなく、ただ一つの大地が身から見れば娑婆という大地で、信心という心から見れば浄土という大地です。「わたしのいのち」がただひたすら「わたしのいのち」であったときは、大地もまたひたすら娑婆という大地でしたが、「わたしのいのち」がそのままで「ほとけのいのち」に摂取不捨されたときに、そこに浄土という大地があらたに開けるのです。身は依然として娑婆という大地に居ますが、心は浄土という大地に居ることになります。

としますと、浄土とは信心のひとの心のなかにあるということでしょうか。身は娑婆にありながら、その心のなかに浄土が開けるのでしょうか。いえ、そうではありません。浄土が信心のひとの心のなかにあるのではなく、信心のひとの心が浄土のなかにあるのです。浄土というあらたな大地の上に信心のひとの心が居るのです。ただ一つの大地が、身という位相から見れば娑婆ですが、心という位相から見れば浄土になるということです。それは富士山という一つの山が、静岡県側から見る姿と、山梨県側から見る姿では異なるのと同様です。あるいは100円玉の表の姿が、クルッとひっくり返すと、裏の姿になるようなものです。

本願の信がひらけたとき、そこにはこれまでとはまったく異なる世界が開けるということを見てきました。そのことを往生といい、浄土というのですが、それを平たく救いの世界が開けるということができるでしょう。そこで最後に考えておきたいのは、この信と救いの関係です。よく「信じれば救われる」あるいは「信じる者は救われる」と言われますが、このことばに含まれている問題について考えたいのです。


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信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す [「親鸞とともに」その84]

(8)信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す

このように往生観が180度転換されることにより、浄土のとらえ方もおのずから180度ひっくり返ります。伝統的に浄土はこの娑婆とは別のどこか(「ここを去ること十万億刹」-『無量寿経』)にあり、そこに往くことが往生とされていましたが(したがってそれはおのずから臨終のときになるのですが)、親鸞によりますと、往生は信心の「いまここ」で正定聚不退の位につくことですから、浄土はこの娑婆と別の世界ではありえません。往生は、そのことばから、「どこかへ往くこと」とイメージされるように、浄土もそのことばから、「どこかにある別世界」とイメージされますが、そのイメージがコペルニクス的に転換されるのです。

親鸞が性信房(関東の弟子の中心人物の一人)に宛てて書いた手紙の一節にこうあります、「光明寺の和尚(善導のことです)の『般舟讃』には、〈信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居(こ)す〉と釈したまへり。〈居す〉といふは、浄土に、信心のひとのこころつねにゐたりといふこころなり」と。もとの『般舟讃』には「厭(いと)へばすなはち娑婆永く隔つ、欣(ねが)へばすなはち浄土につねに居せり」とあるのですが、親鸞はそれを「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」と述べているのです。注目されるのは「その心」がつけ加えられていることで、親鸞にとって浄土に往生するのは信心のひとの「心」であるということです。つまり、身は娑婆にいるままで、しかし「その心」は「すでにつねに浄土に居す」ということ、これが往生だというのです。

娑婆という世界と浄土という世界の二つの世界があるのではなく、世界はただひとつ、この娑婆世界があるだけであり、信心をえたとは言え、身はその世界にいるままです。しかし「その心」は「すでにつねに浄土に居す」ということは、信心という心にはそれ特有の大地があるということになります。身に大地が不可欠なように、心にもそれ独自の大地が必要で、それが浄土であるということです。


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無生の生 [「親鸞とともに」その83]

(7)無生の生

伝統的な往生観では、臨終において阿弥陀如来が多くの菩薩衆とともに念仏の行者のもとに来り迎えて、浄土へと連れて行ってくださるというイメージです(その様子は『観無量寿経』に記され、それが来迎図に描かれて多くの人々の心に焼き付いていきました)。このイメージでは、往生とは死んだ後に、ここではないどこか(アナザーワールド)に往き生まれることです。すぐ気づきますように、この往生観では、浄土に往生することは、輪廻転生において天に生まれ変わることとその構図において本質的な違いはありません。天に生まれ変わる代わりに、浄土に生まれ変わるだけではないかと思われます。このような問題意識は早くからあり、曇鸞は『論註』でこう言っています、「かの浄土はこれ阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり。三有虚妄の生のごときにはあらざる」と。浄土に往生することは、輪廻転生とはまったく異なるのだということです。

親鸞はこの問題意識を受け継ぎ、「無生の生」としての往生について、先の『唯信鈔文意』に見ましたように、「すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ。不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり」と述べています。往生とは、ここではないどこかへ往き生まれることではなく、信心の「いまここ」で正定聚不退すなわち「かならず仏となるべき身」となることだと。この正定聚不退となることについて、親鸞はさらに摂取不捨というキーワードをもちいて語ります。「この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光に入りぬれば、正定聚の位に定まるとみえたり」(『尊号真像銘文』)というように。

摂取不捨とは真実信心の行者を本願のひかりのなかに「おさめとり、むかへとる」ことで、もっともよく知られていることばとしては、『歎異抄』第1章にこうあります、「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をはとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」と。これらのことばから、正定聚の位につくことと不退となること、そして摂取不捨されることはみな同じことを指しており、そしてそれが往生に他ならないのであるとはっきり受けとることができます。


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至心回向 [「親鸞とともに」その82]

(6)至心回向

「至心に回向する」のは誰かという問題です。回向とは「めぐらしさしむける」という意味で、自分のもてる功徳を自他に「めぐらしさしむける」ということですが、もし「われら」が回向するのだとしますと、どうして浄土に往生したいと願えば、そのとき直ちに(即)往生することができるのか、その根拠が明らかではありません。この「そのとき直ちに往生する(即得往生)」ことについて、親鸞はこう解説します、「信心をうればすなはち往生すといふ。すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ。不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり。これを即得往生とは申すなり。即はすなはちといふ。すなはちといふは、ときをへず、日をへだてぬをいふなり」(『唯信鈔文意』)と。

信心をえて願生すれば「ときをへず、日をへだてず」に往生できるというのですが、そんなことができるのは、そこに「如来の回向」があるとしか考えられません。如来がそう願い、はからってくださっているからこそ、「信心をうればすなはち往生す」ることができるのです。したがって、漢文の読みとしては不自然でも、ここは「(如来が)至心に回向したまへり」としか読めないのです。親鸞の最晩年の文に「自然法(じねんほう)()章」とよばれるものがあり、そこにはこうあります、「自然といふは、自はおのづからといふ、行者のはからひにあらず。然といふは、死からしむといふことばなり。しからしむといふは。行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。法爾といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり」と。

引用が多くなりましたが、行者のはからい(われらの回向)によるのではなく、如来のはからい(如来の回向)があるからこそ、本願の信がえられたそのときに、自然法爾に往生することができるのであることが明らかになったのではないでしょうか。さてこのように信心がひらけたそのときに往生するのだとしますと、おのずから往生の持つイメージが大きく改変されることになります。先ほど言いましたように、伝統的に往生は臨終のときと考えられてきましたが、その往生観とはおよそ異なる往生観が出現してきます。それが親鸞の現生正定聚です。


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即得往生 [「親鸞とともに」その81]

(5)即得往生

浄土教では伝統的に浄土に往生するのは臨終のときとされてきました。善導はその前提で「前念命終 後念即生」と言っているのですが、親鸞は第十八願成就文を梃子として、本願の信がえられたそのときに「すなわち往生する」と考えます。

これから少し込み入った話になってきますが、親鸞にとって本願を信じるとはどういうことかを言うためには避けるわけにはいきません。まず第十八願です、「十方の衆生、心を至して信楽し、わが国に生まれんと欲ひて、乃至十念せん。もし生まれずは正覚を取らじ」(世界中の衆生が、心からわたしの本願を信じ、わが浄土に生まれたいと思って、十回でもわたしの名を称えようと思うならば、みな往生させよう、そうでなければ仏になるまい)」。これが四十八願の中心であることについては、衆目の一致するところで、親鸞もまたそう考えます。

しかし親鸞が第十八願そのものもよりさらに重んじるのがその成就文です。四十八願は法蔵菩薩が建てたものですが、それが成就したことを釈迦が述べるものが成就文とよばれ、第十八願成就文はこうです、「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す」(あらゆる衆生が、諸仏が称える名号を聞いて、本願を信じ喜ぶであろう。これは如来の回向であるから、かの浄土に往生したいと願えば、そのとき直ちに往生することができ、仏と成る身から退転することはない)」。

ただこの読み方は親鸞独自のもので、「(如来が)至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば」のところは、普通に読みますと、「(あらゆる衆生が)至心に回向して、かの国に生ぜんと願ずれば」となります。親鸞の読みでは「至心回向」のところだけ、その主語が如来となり、前後の文は「あらゆる衆生」を主語としていますから、如何にも不自然と言わなければなりません。しかし親鸞としては「至心に回向する」主体が如来でなければ、この文全体の趣旨が一貫しないのです。


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前念命終 後念即生 [「親鸞とともに」その80]

(4)前念命終 後念即生

ところが本願の信がおこりますと、その構造がひっくり返ります。何度も言いますように、本願の信がおこるとは、これまで深層意識のなかに押し込まれていた本願が、あるときふいに姿をあらわすということです。それを、すっかり忘れていた本願を、あるとき突然思い出すとか、これまでまったく気づくことのなかった本願に、思いがけず気づくと言ってきました。

これまでは各自それぞれの「わたしの願い」を実現しようとしてわき目もふらず生きてきましたが、あるとき、そうした「わたしの願い」の根底に「ほとけの願い」が息づいていることに気づくのです。これは、これまで「わたしのいのち」をひたすら「わたしの力」で生きていると思っていましたが、実は、そう思うことも含めて、すべて「ほとけのいのち」のはからいで生かされていると気づくことに他なりません。「ほとけのいのち」に願われ、はからわれているから、「わたしのいのち」を生きることができるということです。

「わたしのいのち」をひたすら「わたしの力」で生きている、から、「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」のなかで生かされている、への転換です。

この転換は、先ほどから言っていますように、世界の構造が根底から覆るという経験です。新たな知見を得て、それにより世界像が塗りかえられるどころの騒ぎではなく、生きることの根本前提が180度ひっくり返ることです。中国浄土教の僧・善導のことばをお借りしますと、「前念命終 後念即生」(『往生礼讃』)とも言うべき出来事と言わなければなりません。善導はこのことばを文字通り臨終のこととして語っており、臨終に仏を正念することで、直ちに浄土に往生できる(即生)と言っているのですが、親鸞はこれを信のそのときにもってきます。

親鸞がこのことばを解釈している文を紹介しますと、「本願を信受するは前念命終なり。すなはち正定聚(かならず仏となるべき身)の数に入る。即得往生は後念即生なり。即の時必定(正定聚と同じ)に入る」(『愚禿鈔』)とあります。本願を信じたそのとき、これまでの古い自分は死に、正定聚としての新しい自分が生まれるということです。そしてそれが「即得往生」、つまり「すなはちのときに往生を得」ることだと言うのです。


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信と世界 [「親鸞とともに」その79]

(3)信と世界

普通の信(こちらからつかみとる信)はどこまでも疑いを伴う信であるのに対して、本願の信(本願につかみとられる信)は疑いが消えて澄みきった信であることを見てきましたが、次に考えたいのは、本願の信がひらけたとき、何が起こるかということ、信後の世界はどのようなものであるかについてです。

まず普通の信の場合、ある信が得られたとき、世界にどんな変化が生じるかといいますと、新たな知見が得られたのですから、その分だけ世界は新しくなったと言えます。これまでの世界に新たな知見が加わったわけで、これまで見えていなかったことが見えるようになり、それだけ世界像は新たに塗り替えられることになります(ただ信にもとづく知見にはどこまでも疑いがはりついていますから、それによる世界像はあくまでも暫定的なものであることを忘れるわけにはいきません)。このように、われらがある信をつかみとったとしても、それにより世界像が幾分か塗り替えられるでしょうが、われらがさまざまな知見によって世界像を造りだし、そのなかに生きているという構造そのものには何の変化もありません。

では本願の信はどうかと言いますと、信をえる前とその後では世界が一変します。世界像が変わるのではなく、世界の構造そのものがひっくり返るのです。

本願の信がおこる前は、「わたし」が「わたしのいのち」を「わたしの力」で生きていると思っていました。すべて「わたし」あってのものだねで、「わたし」の裁量ですべては動いていると思っていました。もちろん「わたし」一人では生きることができず、多くの人たちの支えが必要ですが、その支えを得ることができるのも、つまるところ「わたしの力」によるものであると思っていました。そもそも「わたし」が生きていることは「わたし」が生きようと思っているからであり、その思いがなくなったときには早晩「わたしのいのち」は消えてしまうことでしょう。

デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」と言ったのは、「われ生きんかなと思う、ゆえにわれいまここにあり」ということです。


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「信じる」と「疑う」 [「親鸞とともに」その78]

(2)「信じる」と「疑う」

本願を信じるとは、すっかり忘れていた本願を思い出すことであると述べてきましたが、これは同じ信じるということばながら、普通に何かを信じるというときの信じるとはおよそ異なると言わなければなりません。

そこで両者の違いについて思いを廻らせてみたいと思いますが、そのための手がかりとして「疑う」との関係に注目しましょう。普通に何かを「信じる」ときは、その裏側にかならず「疑う」ことが貼りついています。「信じる」と「疑う」は対となっており、「信じる」度合が大きいときでも、そこには何がしか疑いが含まれています。ですから信と疑にはグラデーションがあり、「ほとんど」信じるからはじまって、「ほぼ」信じる、「まあ」信じるとなり、分岐点を越えると、「やや」疑う、「かなり」疑う、そして「ほとんど」疑うと変わっていきます。ここには「絶対」はありません。「わたしは絶対信じています」という場合がありますが、そのように力んで言うこと自体、そこに疑いが潜んでいることを示しています。

これは「わたし」が「何か」について信を与えていいかどうかを判定しているということで、どの程度信じていいかを計っているのです。それに対して本願を信じるとは、「わたし」が本願を信じるのではなく、すっかり忘れられていた本願がみずから浮上してきたことによって、これまでまったく意識に上っていなかった本願の存在にはじめて気づいていることです。「わたし」が何かを信じるというときは、「わたし」が何かをつかまえて、それが信じるに値するかどうかを検分しているのですから、そこには最初から疑いが貼りついていますが、本願を信じるときには、反対に本願の方が「わたし」をむんずとつかまえ、もう決して放そうとしません。ですから、ここには「疑う」という要素はまったくありません。

本願を信じるというときの信は、そのもとの梵語は「プラサーダ」で、「澄清」ということ、これまで濁っていた水がさーっと澄んで清らかな状態になることを意味します。疑いが晴れて、澄みきった心の状態が信です。


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はじめに(8) [「親鸞とともに」その77]

第8回 信じるということ

(1)はじめに

「ほとけの願い」は「わたしのいのち」が「ほとけのいのち」から生まれてくるとき、そのなかにすでに与えられていることを見てきました。ちょうどわれらのいのちが生まれてきたとき、そのなかにはすでに遺伝子が与えられているようなものです。しかしわれらはそんなことを意識せずに生きています。プラトンのイデア論において、われらはこの世に生まれてくるとき、それ以前に見ていたイデアの世界をすっかり忘れてしまっているように、われらは「ほとけの願い」のことを意識の深層に追いやって生きています。各自がそれぞれの「わたしの願い」をもち、それを「わたしの力」で実現しようと必死に生きており、「ほとけの願い」のことなどまったく意識にありません。

ところが、何かの折に、すっかり忘れ、忘れていること自体を忘れていた「ほとけの願い」をふいに思い出すことがあります。プラトンのイデア論において、何か美しいものに出あったとき、すっかり忘れ果てていた「美のイデア」を想い起こすように。さて、このように忘れたこと自体を忘れていることは、自分でそれを思い出すことはできません。何かを忘れても、忘れたことは自覚している場合、それを思い出そうと努力することができます。年とともに人の名前を忘れることが多くなりますが、「えーっと、何という名前だったかな」と、さまざまな手がかりで必死に思い出そうとします。しかし忘れたことそのものを忘れてしまったときは、自分ではもう何ともなりません。

すぐ前のところで「ほとけの願い」を「ふいに思い出す」と言いましたのは、「こちらから」思い出そうとしているのではないのに(何しろ忘れたことを忘れているのですから)、「むこうから」浮び上がってくるということです。つまり「ほとけの願い」は自分の力で思い出すことはできず、「ほとけの願い」そのものがわれらをして思い出させるのです。「ほとけの願い」を思い出すことはわれら「に」おこりますが、われら「が」おこすことはできず、「ほとけの願い」それ自体がおこすということです。これが「ほとけの願い」を信じるということ、すなわち本願の信心です。


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すでに与えられている [「親鸞とともに」その76]

(8)すでに与えられている

「わたしの願い」の奥底に「ほとけの願い」が潜んでいることは、たとえば宮沢賢治の次のことばがよく示しています、「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありない」(『農民芸術概論綱要』)。あるいはよく知られた次の詩の一節もそうです、「東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ 北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ ヒドリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ」(「雨ニモマケズ」)。

これを見ますと「ほとけの願い」は「わたしの願い」のなかに内在していることが分かりますが、さてしかし、宮沢賢治が「世界がぜんたい幸福になりますように」と願うことができるのも、それに先立って「世界がぜんたい幸福になりますように」という「ほとけ願い」が世界全体にかけられているからであると言わなければなりません。われらに願いがけられているから、われらが願うことができるのであり、その意味では「ほとけの願い」は「わたしの願い」を超越していると言うことができます。かくして「ほとけの願い」は「わたしの願い」のなかに内在しながら、同時に、「わたしの願い」を超越しているということになります。内にありながら、同時に、外にあるのです。

この内在かつ超越という関係は「すでに与えられている」という言い方で表すことができます。「ほとけの願い」はわれらに「すでに与えられています」から、われらの内にあります。しかし「与えられる」のですから、その意味ではそれはわれらの外にあると言わなければなりません。かくして「ほとけの願い」はわれらの内にありながら、かつ外にあることになります。「ほとけの願い」は、「わたしのいのち」が「ほとけのいのち」から生まれてきたとき「すでに与えられている」のですが(ですから内在していますが)、それは元来「ほとけのいのち」の願いであり、それがわれらに与えられるのです(ですから超越しています)。

(第7回 願うということ 完)


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