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信のある人とない人 [「『おふみ』を読む」その47]

(7)信のある人とない人

弥陀は光明・名号とともに信心をもわれらに与えてくださったはずなのに、どうして信心がある人とない人がいるのか。これは、われらは否応なく時間の中にいることに関わります。時間には過去・現在・未来があり、信心(気づき)にも過去・現在・未来があります。すでに気づいた人もいれば、いま気づく人もいるし、これから気づく人もいる。光明・名号とともに信心も本来からしますと十劫のむかしに与えられたはずですが、すでに信をえた人、いま信をえる人、これから信をえる人がいる。

ではどういう人がすでに信をえ、どういう人がまだ信をえていないのか。残念ながら、この問いには答えるすべがありません。本来から言えば(永遠の相の下では)、もうみんな信をえているはずですが、どういうわけか、すでに信をえた人と、いまだ信をえていない人がいる。もし、かくかくしかじかの人は信をえていると言うとしますと、その途端に、その信は条件つきの信、自力の信になってしまいます。というわけで、ある人はすでに信をえているのに、ある人はいまだ信をえていないか、それはその人の宿業によると言うしかないのです。

親鸞は『教行信証』の「序」でこう言っています、「ああ、弘誓の強縁、多生にも値(もうあ)ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」と。「遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり」(同)と言うしかないのです。


タグ:親鸞を読む
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