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当流のおきて [「『おふみ』を読む」その51]

(11)当流のおきて

「おふみ」を読み進めていくと分かりますが、「わが流に伝ふるところの義をしかと内心にたくはへて、外相にそのいろをあらはさぬ」ことが当流の掟であると、蓮如は繰り返し巻き返し述べています。さてしかし、これはいったいどういうことだろう、と戸惑いを覚えます。正しいことを言うのに、なんの遠慮がいるものか、誰に向かっても堂々とものを言えばいいではないか、と思ってしまいます。そもそも蓮如は開山聖人の教えを世に広めたいという使命感をもって行動しているはずです。そのために吉崎という「虎狼のすみなれしこの山中をひきたひらげて」まで、人々に正しい念仏の教えを伝えようとしているのです。にもかかわらず「外相にそのいろをあらはさぬ」のがものを心得た人であるという。ここには一種の二律背反があります。

なぜ「外相にそのいろをあらはさぬ」のか。言うまでもありません、「他門他宗に対してはばかりなく、わが家の義を申しあらは」しますと、周りから猛烈な反感を買うからです。自流の教えを大っぴらに述べ伝えることは、おのずから他流の教えに対する批判となり、それが反発となって災いが降りかかってくるからです。それは法然・親鸞の時代からいやというほど繰り返されてきた歴史であり、蓮如もまた身をもって体験してきました(寛正の法難)。こうした法難に遭わないようにするにはどうしたらいいか、このことを否応なく考えなければなりません。

日蓮なら降りかかってくる災難にこちらから立ち向かっていくことでしょう。正義はこちらにあるのですから、なに臆することなく、相手の非を攻撃する、これが日蓮流です。折伏の思想です。平たく言えば、相手を説得する姿勢です。それに対して法然・親鸞、そしてその流れをくむ蓮如は、相手を説得しようとはしません。違う考えの人と争おうとはしません。できる限り争いを避け、避けきれないときはその場を立ち去るのです。蓮如は大谷本廟を破砕され、琵琶湖岸に逃げました。そこも攻撃されると、今度はここ吉崎に新天地を求め、そこにも居づらくなると摂津に逃げます。そして逃げながら、結果的に教線を広げていくのです。


タグ:親鸞を読む
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