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第1帖・第10通、前段 [「『おふみ』を読む」その56]

第5回 第1帖・第10通,第11通,第12通

(1)第1帖・第10通、前段

そもそも、吉崎の当山において多屋(たや)の坊主達の内方(ないほう)とならんひとは、まことに先世(せんぜ)の宿縁あさからぬゆとおもはんべるべきなり。それも後生(ごしょう)を一大事とおもひ、信心も決定したらん身にとりてのうのことなり。しかれば内方とならんひとびとは、あかまえて信心をよくよくとらるべし。それまず当流の安心(あんじん)申すことは、およそ浄土一家(いっけ)のうちにおいて、ありてことにすぐれたるいわれあるがゆに、他力の大信心と申すなり。さればこの信心をえたるひとは、十人は十人ながら百人は百人ながら、今度の往生は一定(いちじょう)なりとこころうべきものなり。その安心と申すは、いかようにこころうべきことやらん、くしくもしりはんべらざるなり。

答へていわく、まことにこの不審肝要のことなり。おほよそ当流の信心をとるべきおもむきは、まずわが身は女人なれば、罪ふかき五障(ごしょう)(さん)(しょう)とてあさましき身にて、すでに十方の如来も三世の諸仏にもすてられたる女人なりけるを、かたじけなくも弥陀如来ひとりかかる機をすくんと誓ひたまて、すでに四十八願をおこしたまり。そのうち第十八の願において、一切の悪人・女人をたすけたまるうに、な女人はふかく(うたがい)のこころふかきによりて、またかさねて第三十五の願にな女人をたすけんといる願をおこしたまるなり。かかる弥陀如来の御苦労ありつる御恩のかたじけなさよと、ふかくおもべきなり。

(現代語訳) そもそもこの吉崎において、多屋(各寺院の詰所、吉崎にお参りする門徒たちが宿泊しながら聞法をする場)の奥方となられる方々は、前世からのふかい宿縁があると思わなければなりません。そのように思うようになるのも、何をおいても後生を一大事と思い、信心が定まった身となっているからこそのことです。ですから、多屋の奥方となられる方々は、かならずや信心をしっかりとらなければなりません。さて当流の安心と言いますのは、およそ浄土の流れをくむ中にあって、とりわけすぐれたものですから、他力の大信心というのです。ですからこの信心を得た人は、十人は十人ながら百人は百人ながら、このたびの往生は定まったものと心得てください。その安心と言いますのは、どのようなものと心得たらいいのでしょう、詳しくは存じません。

お答えします。その疑問はまことに大事です。およそ当流の安心をえると言いますのは、まず、わが身は女人で、罪深い五障・三従のあさましい身ですから、十方の如来も三世の諸仏にも見捨てられているところを、かたじけなくも弥陀如来お一人が、このような身を救わんと誓われ、四十八の願をたててくださいました。そのなかの第十八の願により、すべての悪人・女人をたすけてくださる上に、女人はとりわけ罪深く疑い深いゆえに、さらに重ねて第三十五の願で、特に女人をたすけようという願いを立ててくださったのです。このよう弥陀如来のご苦労を思うにつけ、その御恩のかたじけなさを深く感謝しなければなりません。


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