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一切衆生悉有仏性 [「『正信偈』ふたたび」その82]

(3)一切衆生悉有仏性

『涅槃経』のいちばんのトピックである「一切衆生悉有仏性(一切の衆生に悉く仏性あり)」を取り上げてみますと、それは「本願他力の教え」とどこで交わるのでしょう。因みに、親鸞はかなり『涅槃経』を読み込んでいたと思われ、『教行信証』にはしばしばこの経典からの引用があります。浄土三部経は別としまして、それ以外の経典としては引用のボリュウムが他を圧倒しています。なかでも「信巻」後半部において阿闍世王の救済を廻る物語が長々と引用されているのが印象に残ります。ともあれ『涅槃経』の説く「一切衆生悉有仏性」と『無量寿経』の説く「本願力による往生」とは似ても似つかぬ顔つきをしていますが、どこに共通点を見いだすことができるのでしょう。

「一切衆生悉有仏性」は、生きとし生けるものはみな仏の種(仏性)を宿しているということで、それに目覚める(悟る)ことにより救われるという教えです。一方「本願力による往生」とは、われらはみな弥陀の本願力により生かされているのであり、そのことに気づく(信ずる)ことで往生できる(救われる)という教えです。仏の種を宿していると言うのと、本願力に生かされていると言うのとでは接点がないように思われるかもしれませんが、しかしどちらも「ほとけのいのち」のふところのなかに包まれていると言っているのであり、その点では何も違いはありません。仏の種を宿すということは、仏の子としてすでに親のふところのなかにあるということであり、一方、本願力に生かされているということは、仏の「生かしめん」とする力のなかに包まれているということで、結局は同じことです。

では両者を根本的に区別するものはどこにあるのでしょう。「一切衆生悉有仏性」の教えは、そのことにわれらが「みずから」目覚めなければならないと説くのに対して、「本願力による往生」の教えは、それに本願力自身が気づかせてくれると説くこと、ここに両者を分ける分水嶺があります。われらはみな「ほとけのいのち」のふところのなかに包まれていることを「みずから」自覚するのと、それを「ほとけのいのち」に気づかせてもらうのとの違いです。「一切衆生悉有仏性」の門はわれらの前にあり、その門をわれら自身がこれからくぐらなければなりませんが、「本願力による往生」の門はわれらの後にあり、気がついたらもうそのなかに入っているのです。


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聖道と浄土 [「『正信偈』ふたたび」その81]

(2)聖道と浄土

聖道門と浄土門は「自力で悟りを得る」と「他力で浄土に往生する」というように対比されますが、このように並べますと、両者は互いに全く縁のない二つの道であるような印象を受けます。

ふり返ってみますと、龍樹は仏教に「難行と易行」という区別を持ち出しましたし、曇鸞はまた「自力と他力」という別のコントラストを打ち出しましたが、しかし仏教を二つに分けて互いに対立しあう関係ととらえているのではなく、同じ地点に至る別のコースというような受け取り方ではなかったでしょうか。ところが道綽の「聖道と浄土」となりますと、両者は互いに相いれない二つの道であり、しかも「聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす」と言われますから、もはや聖道の時代は終わり、いまや浄土の教えだけが有効であるという印象になります。ちょうど大乗仏教が興隆してきたときに、もう小乗の時代は終わり、いまや大乗の教えだけが人々を救うことができると説かれたのと同じようなイメージです。

しかし小乗にせよ大乗にせよ、聖道門にせよ浄土門にせよ、釈尊の説かれた同じ仏教であるということ、これを忘れますと不毛な対立意識だけが生まれてしまうことになります。親鸞が七高僧の最初に龍樹を上げ、二人目に天親を上げていることは、このような不毛な対立意識などなかったことを示しているのではないでしょうか。龍樹と天親はいまさら言うまでもなく、聖道を代表する二人の論家であり、彼らによって大乗仏教の大きな流れがつくられて来たと言えます。それでは聖道と浄土の関係をどのように捉えるべきかといいますと、どちらも釈迦が語ったことにもとづく同じ仏教であり、説かれていることに違いはありませんが、ただ説かれていることにどのようにして至ることができるかという点で袂を分かつことになります。

そうは言うものの聖道門で説かれることと浄土門で説かれることは、一見したところ、まったく違うように思われます。これまで出てきました龍樹や天親の場合もそうでしたが、道綽の立脚点であった涅槃宗の教えと浄土門が説く本願他力の教えの間にどのような接点があるのだろうかと思います。まったく無縁のことをそれぞれに説いているという印象です。


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偈文1(第9回、道綽) [「『正信偈』ふたたび」その80]

第9回 一生悪を造れども

(1)  偈文1

次は道綽讃です。まずは前半4句から。

道綽決聖道難証 唯明浄土可通入

万善自力貶勤修 円満徳号勧専称

道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす。

万善の自力、勤修(ごんしゅ)を貶す。円満の徳号、専称を勧む。

道綽禅師は『安楽集』を著し、この濁った時代に聖道門で悟りを得ることは難しく、ただ浄土門だけがわれらの入るべき道であることを明らかにしてくれました。

自らの力によりどれほど善根を積もうともむなしいと説き、功徳が円かに満たされている名号を専ら称えることを勧めてくださったのです。

はじめに道綽の人となりを見ておきましょう。彼は南北朝時代に北周の太原(たいげん)に生まれました(562-645)。聖徳太子と同じ時代の人です。当時の中国は戦乱に次ぐ戦乱の過酷な時代で、しかも廃仏という災難もありました。道綽は14歳で出家しますが、その廃仏の混乱の中を生きなければなりませんでした。もとは涅槃宗(『涅槃経』による宗派ですが、のちに衰微します)の人ですが、48歳のときに玄中寺で曇鸞を讃える碑文に出あい、それを機に浄土の教えに帰したという有名なエピソードが伝えられています。

このような時代背景から末法思想が広がりをみせていました。釈尊入滅後の500年は教・行・証がそろう正法の時代で、それに次ぐ1000年は教・行はあってももはや証は望めない像法の時代となり、そしてそれ以後は教だけはあるが、行も証もない末法の時代に入るという思想で、道綽の時代はもはや末法の世となったと考えられていました。そのような歴史意識から彼は主著『安楽集』において、「当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり」と述べています。

この末法思想を背景として彼は仏教を「聖道門」と「浄土門」に区別し、いまや聖道門の時代ではなく浄土門の時代であると宣言します。第一・二句で「道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす」と言われているのがそれで、『安楽集』には先の「当今は末法にして云々」のあと、「唯、浄土の一門のみありて、通入すべき路なり」と述べられています。この末法の世においては、もはや自力の修行によってこの世で悟りを開こうとする聖道門は通用せず、阿弥陀仏の本願他力により浄土に往生する道だけがわれらの前に開けているということです。


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本願名号のリレー [「『正信偈』ふたたび」その79]

(10)本願名号のリレー

往相と還相の間に時間的な前後があるわけではなく、往相がそのままで還相であると言いましたが、としますと、信がひらけたそのときに往相がはじまり、それがまた還相のはじまりでもあるということになります。

信がひらけたそのとき(親鸞のことばでは「信楽開発の時剋の極促」)、「ほとけのいのち」に摂取されている自分に目覚め、それが往生することに他なりませんが、それで時間がストップするわけではありません。そこから新しい時間がはじまり、それが正定聚不退としての生のはじまりであり、そしてそれがまた還相のはじまりです。信心の人とは本願の人であり(本願と信心はひとつです)、本願をわが願いとして生きる人ですから、「若不生者不取正覚(もし生れずは、正覚を取らじ)」という教化利他の思いを持って生きることになります。

ここで想い起こしておきたいのが、本願の信は本願によりおこりますが、しかし本願が直接われらに信をおこすことはなく(本願は天空から降ってくるわけではなく)、名号という「こえ」とならなければならないということです。その「こえ」が届いてはじめて信がひらけます。そして「こえ」とならなければならないということは、その「こえ」を発する誰かが必要であるということであり、その誰かというのが「よきひと」に他なりません。『歎異抄』第2章に「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」とあるあの「よきひと」です。

信がひらけたときに往相がはじまり、それがまた還相のはじまりであると言いましたが、この還相のはたらきとは、有縁の人に「ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべし」という「こえ」(これが名号の「こえ」です)を届けることです。その「こえ」が誰かの心に届きましたら、そのときその人に信がひらけ、届けた人はその人にとっての「よきひと」となるのです。このようにして、誰かから名号の「こえ」を届けられ、そしてまた別の誰かに名号の「こえ」を届けるという形で本願名号は次々とリレーされていくことになります。

(第8回 完)


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往相と還相 [「『正信偈』ふたたび」その78]

(9)往相と還相

さて最後の第五・六句、「かならず無量光明土に至れば、諸有の衆生みなあまねく化すといへり」です。これは第一句で「往還の回向は他力による」と言われていたなかの還相の回向に当たります。浄土へ往く相すなわち往生することが往相で、浄土から穢土へ還る相すなわち利他教化することが還相ですが、往相も還相もみな如来の回向であり他力であると言われていました。その還相のことがここで言われているのですが、さて考えなければならないのは、往相と還相の時間的な関係です。しばしば、というより、もうほとんどの場合と言った方がいいと思われますが、往相が終わった後に還相がはじまると考えられています。しかしそれでいいのだろうかということです。

「かならず無量光明土に至れば、諸有の衆生みなあまねく化すといへり」という言い回しそのものが、往相の後に還相と言っているように思えます、まず「無量光明土に至り」、しかる後に「諸有の衆生みなあまねく化す」のだと。しかし気をつけなければいけないのは「至れば」という表現で、これが口語表現ならば「もし至ったならば」という意味ですが、文語表現では「もう至っているので」という意味になるということです(「もし至ったならば」と言おうとしましたら、「至らば」としなければなりません)。ですからこの文は往相の後に還相がはじまると言っているのではなく、往相はそのままですでに還相であるということです。

そもそも往相、還相ということばそのものがその間に時間的な前後があるように思わせてしまいます。「往く」、「還る」というのですから、「往く」が前で、「還る」は後であるとならざるをえません。しかしここでもういちど原点に立ち返り、往生とはこことは別のどこか(アナザーワールド)へ往くことではなく、「いまここ」で「ほとけのいのち」のふところのなかで生かされていると感じることであることを思い起こしたい。「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままですでに「ほとけのいのち」のなかに摂取不捨されていると気づくとき、足下に浄土がひろがるということ(「すでにつねに浄土に居す」)、これが正定聚不退となることであり、すなわち往生することです。


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生死すなわち涅槃なり [「『正信偈』ふたたび」その77]

(8)生死すなはち涅槃なり

次に第三、四句「惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ」です。われらに信心がおこるということは、「生死すなはち涅槃なり」ということが了解できることに他ならないというのです。「生死すなはち涅槃なり」というのは大乗仏教の真髄中の真髄であり、その奥義ともいうべきことですが、それが本願の信心がおこることで了解できると言うのですから大変です。

惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ」という趣旨のことが言われているのはどこかといいますと、『浄土論』の「かの世界(浄土)の相を観ずるに、三界の道に勝過せり」という文を注釈しているところで、「凡夫人ありて煩悩成就するもまたかの浄土に生ずることを得れば、三界の繫業、畢竟じて牽かず。すなはちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得」と言われているのがそれです。このなかの「煩悩を断ぜずして涅槃分を得」とは「生死すなはち涅槃なり」と同じことですから、この文は煩悩具足の凡夫に信心がおこり浄土に往生することで「生死すなはち涅槃なり」の境地に至ると言っているのです。

この「生死すなはち涅槃なり」は、そのままのかたちでのみ込むのははなはだ困難ですが、生死を「わたしのいのち」に、涅槃を「ほとけのいのち」に変換することで近づきやすくなります。生死の世界とは「わたしのいのち」の世界すなわち自他相剋の娑婆に他なりませんし、涅槃の世界とは「ほとけのいのち」の世界すなわち自他一如の浄土に他なりません。さて信心がおこるということは、はじめて「ほとけのいのち」に目覚めることです。これまではただ「わたしのいのち」しかありませんでしたが、いまや「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」のふところのなかで生かされていることに気づいたのです。このとき、「わたしのいのち」すなわち生死は、そのまま「ほとけのいのち」すなわち涅槃です。


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本願と信心はひとつ [「『正信偈』ふたたび」その76]

(7)本願と信心はひとつ

さて第二句「正定の因はただ信心なり」です。何の「正定の因」かといいますと、もちろん浄土へ往く往相と浄土から還る還相の因です。その因は信心であると言うのですが、ここで「うん?」となります。第一句で往相も還相も如来の回向であると言われたばかりだからです。浄土へ往くのもそこから還るのも本願の力によると言われたそのすぐ後に、それらのほんとうの因は信心であると言われるものですから、戸惑うことになるのです。しかし信心についてこれまで述べてきたことを思い返しますと、この謎はただちに氷解します。

本願を信じるとは、どこかにある本願をわれらがゲットすることではありません。そもそも本願というものはどこかにある「体(モノ)」ではなく、「用(はたらき)」です。そのはたらきがわが身の上に感じられる(本願のはたらきにゲットされる)ことが信心ですから、本願と信心は切り離すことができません。曇鸞は「火と木」の譬えでこう述べています、「たとへば火、木より出でて、火、木を離るることを得ざるなり。木を離れざるをもつてのゆゑに、すなはちよく木を焼く。木、火のために焼かれて、木すなはち火となるがごときなり」(『論註』)と。この火を本願、木をわれらの心とおきますと、「本願はわれらの心にその姿をあらわし、心を離れることがありません。本願は心を離れることがありませんから、本願と心はひとつとなり信心となります」ということです。

本願という法がわれら機において信心となってあらわれているのですから、本願が因であると言うのも、信心が因であると言うのもまったく同じことです。往相と還相の因は何かと言うとき、それを法からしていえば本願であり、それを機からしていえば信心であるということで、同じことを言っているのです。「他力による(往還回向由他力)」というのも、「信心による(正定之因唯信心)」というのも、同じことを別様に(コインの表と裏から)言っているだけのことです。


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感じるということ [「『正信偈』ふたたび」その75]

(6)感じるということ

他力に生かされていることは他力によりはじめて知らされるということについて考えているところです。いや、他力に生かされていることは、知らされるというよりも感じさせられるというべきでしょう。源信の「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつらずといへども、大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」ということばを手がかりにしますと、源信は、大悲の摂取のなかにあることを「見る」ことはできないが、それはもう否応なく「感じられる」と言っています。この「見る」は「知る」と言いかえることができるでしょうから、われらは他力のはたらきをどれほど知ろうとしても知ることはできないが、そのはたらきをわが身の上に生き生きと感じることができるということです。

ここで「感じる」ということについて考えておきたいと思います。一般に何かを「感じる」とき、それはその「何か」のはたらきであり、「われら」の力ではないということについてです。

たとえばわれらが寒さを感じるとき、それをもたらしているのは寒さであってわれらではありません。寒さがないときに、どれほど寒さを感じようとしてもどうにもなりませんから。ここで反論が起こるかもしれません。感受性の勝れた人というように、何かを感じる能力がわれらにそなわっているのではないだろうか、とするならば何かを感じるのもわれらの力によるのではないのか、と。なるほど寒さを感じとる力がわれらに備わっていなければ、どんなに寒くても、寒さを感じることはないでしょう。しかしそのことは寒さの感受がわれら「に」起こるということを意味するだけであり、決してわれら「が」寒さの感受を起こすことができるということにはなりません。やはり寒さの感受は寒さが起こすと言わなければなりません。

他力(「ほとけのいのち」)に生かされていると感じることも、それは他力によるのであり、われらの力によるのではありません。他力の感受はわれら「に」起こりますが、われら「が」起こすことはできません。


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偈文2(第8回、曇鸞) [「『正信偈』ふたたび」その74]

(5)偈文2(第8回、曇鸞)

曇鸞讃の後半6句です。

往還回向由他力 正定之因唯信心

惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃

必至無量光明土 諸有衆生皆普化

往還の回向は他力による。正定の因はただ信心なり。

惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ。

かならず無量光明土に至れば、諸有の衆生みなあまねく化すといへり。

曇鸞大師は『浄土論註』において、次のように言われます、「往相の回向も還相の回向も弥陀の本願力によります。往生浄土の身と定まるのは、ただ信心によってです。

煩悩に染まった凡夫も、信心を得さえすれば、この生死の迷いがそのままで涅槃であることに気づかせていただけるのです。

そして浄土に往生できましたならば、一切の衆生を救うはたらきをさせていただくのです」と。

まずは第一句について。親鸞は『教行信証』の第一巻「教巻」のはじめに「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり」と表明していますが、それがここで言われていることに当たります。如来の回向(他力の回向)に往相と還相があるということですが、これは『浄土論』において「入」と「出」ということばで言われていたのを、曇鸞が「往」と「還」ということばに言い替えているのです。すなわち浄土に「往く」(「入る」)相と、浄土から「還る」(「出る」)相の二つです。浄土に往くだけでなく、浄土から還ることがあり、その二つが一体のものとして如来から回向されているということです。

浄土から還るとはどういうことかにつきましては第五・六句で考えるとしまして、浄土に往くことは他力によるということをあらためて確認しておきましょう。あらためてと言いますのは、往相は他力によるとは、すぐ前に「報土の因果誓願に顕す」と言われていたことと別ではないからです。浄土へ往くとは、こことは別のどこか(アナザーワールド)に往くことではなく、「いまここ」で本願力のはたらきを生き生きと感じ、「ほとけのいのち」のふところのなかに摂め取られ、生かされていることに思い至ることですが、それは自力ではなく他力によるということ、これです。


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「ほとけのいのち」のふところのなかで生かされている [「『正信偈』ふたたび」その73]

(4)「ほとけのいのち」のふところのなかで生かされている

「わたしのいのち」を生きることは自力で、「ほとけのいのち」に生かされることが他力ですから、「わたしのいのち」を生きるままで「ほとけのいのち」に生かされているということは、自力はそのままで他力であるということです。浄土に往生するとはこのことに気づくことにほかなりませんが、さて、これは如何にして可能でしょうか。自力はそのままで他力であることを自力で思い至ることはできません。他力に生かされていることに自力で思い至ることほど奇妙奇天烈なことはなく、そのことは他力により気づかせてもらうしかありません。

他力に生かされているということは、しばしば誤解されますが、他の「わたしのいのち」に生かされているということではありません。そのようなことでしたら、われらは一人では生きられないという普通の常識に属することにすぎず、そのことに自力で思い至ることができます。しかし他力に生かされているというのは、あらゆる「わたしのいのち」がみな「ほとけのいのち」のなかで生かされているということで、「ほとけのいのち」とはあらゆる「わたしのいのち」をそのなかに包み込んで生かしめる「無量(アミタ)のいのち」です。

さて「無量のいのち」のことにわれら「有量のいのち」が自力で思い至ることはできません。もしわれら「有量のいのち」が「無量のいのち」に自力で思い至ったとしますと、その「無量のいのち」はニセモノであると断言できます。なぜなら、その「無量のいのち」の外に、それに思い至った「有量のいのち」があるのですから、それはもはや「無量のいのち」ではないからです。としますと、われら「有量のいのち」が「無量のいのち」のなかに包み込まれて生かされているということは、「無量のいのち」から気づかせてもらったとしか考えることができません。

われらは「無量のいのち」をこちらからゲットすることはできません、ただ「無量のいのいのち」がわれらをゲットするのみです。そして「無量のいのち」にゲットされたと感じることが浄土に往生することに他なりません。これが「報土の因果誓願に顕わす」ということばが意味することです。


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