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聞不具足 [「信巻を読む(2)」その18]

(5)聞不具足

次に『涅槃経』から「聞不具足」の文と、『観経疏』から「一心専念」と「専心専念」の語が引かれます。

『涅槃経』にのたまはく、「いかなるをか名づけて聞不具足とする。如来の所説は十二部経(経典を形式や内容により十二に分類したもの)なり。ただ六部を信じていまだ六部を信ぜず、このゆゑに名づけて聞不具足とす。またこの六部の経を受持すといへども、読誦にあたはずして他のために解説(げせつ)すれば利益するところなけん。このゆゑに名づけて聞不具足とす。またこの六部の経を受けをはりて、論議のためのゆゑに、勝他のためのゆゑに、利養のためのゆゑに、諸有のためのゆゑに持読誦説せん。このゆゑに名づけて聞不具足とす」とのたまへり。以上

光明寺の和尚は「一心専念」といひ、また「専心専念」といへり。以上

まず『涅槃経』の文ですが、先の菩提心釈のところで「信不具足」と「聞不具足」について言及されていました。いずれも信心の肝心要のところが抜け落ちているということですが、「信不具足」についてはすでに信楽釈のなかで『涅槃経』の文が引用されていました。それにつづく「聞不具足」についての文がここで引用されているのです。もちろん十八願成就文の「聞其名号」との関連です。名号を「聞く」ことが本願を「信じる」ことに他ならないのですが、そもそも「聞く」とはどういうことかを『涅槃経』の文から考えようということでしょう。

ここで言われているのは、釈迦の教えの半分だけを聞いてよしとしていること、そして何かの「ために」利用しようとして聞くことが「聞不具足」だということですが、その根底にあるのは、聞こえてくることばが「こころに届く」ことはなく、ただ「あたまに届いている」だけということではないでしょうか。聞こえてきたことばを「あたまで理解している」だけで、そのことばが「こころに響いていない」ということです。「ことば〈を〉」と「ことば〈が〉」の違いに注目しましょう。前者はわれらがことばをゲットしていますが、後者はことばがわれらをゲットしています。


タグ:親鸞を読む
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