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如実修行相応 [「信巻を読む(2)」その30]

(6)如実修行相応

以上で「信の一念」釈が終わり、親鸞はここで「信の一念」について締めくくるとともに、これまで長くつづいてきた「三心一心問答」の幕を閉じます。そしておまけのように、菩提心(菩提質多)ということばについて、天台智顗の釈をつけ加えます。

ゆゑに知んぬ、一心これを如実修行相応となづく。すなはちこれ正教なり、これ正義なり、これ正行なり、これ正解なり、これ正業なり、これ正智なり。

三心すなはち一心なり。一心すなはち金剛真心の義、答へをはんぬ、知るべしと。

『止観』(天台智顗の著『摩訶止観』のこと。『法華玄義』、『法華文句』とともに天台三大部の一)の一にいはく、「〈菩提〉とは天竺の語(ことば)、ここには道と称す。〈質多〉といふは天竺の音(こえ)なり、この方には心といふ。心とはすなはち慮知なり」と。以上

最初の文は「信の一念」についての締めのことばと考えられます。「一念」とは「一心」に他ならず、それは「如実修行相応」であるというのですが、このことはば『浄土論』に「かの名義のごとく、如実に修行して相応せん(如実修行相応)」とあるもので、本願名号に相応して教えのごとくに行ずるという意味です。曇鸞はこれを注釈してこう言います、「かの無碍光如来の名号は、よく衆生一切の無明を破し、よく衆生一切の志願を満てたまふ。しかるに称名憶念することあれども、無明なほ存して所願を満てざるはいかんとならば、実の如く修行せざると、名義と相応せざるによるがゆへなり」と。本願を信じ、名号を称えれば、無明の闇が晴れ往生の願いがかなう(破闇満願)はずなのに、そうならないことがあるのはどうしたことかと問い、それに答えて、それは如実に修行して本願名号に相応していないからだと言うのです。

「実の如く修行せざると、名義と相応せざる」とは、平たく言えば、われらの信心念仏と本願名号とが一つ(一心)になっていないということです。あちらに「ほとけの心(本願名号)」があり、こちらに「わたしの心(信心念仏)」があるというように、「わたしの心」と「ほとけの心」が別々になっているのです(二心)。


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「わたしの心」と「ほとけの心」は不一不異 [「信巻を読む(2)」その29]

(5)「わたしの心」と「ほとけの心」は不一不異

そして最後の「木、火のために焼かれて、木すなはち火となるがごときなり」ですが、これはどう理解すればいいでしょう。「木すなはち火となる」といいますが、生きている間に「わたしの心」がすっかり「ほとけの心」になってしまうことはないでしょう。そうなるのは「わたしのいのち」が終わるときのことであり、「わたしのいのち」がある限り「臨終の一念にいたるまで」「欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ」のままです。さてしかし、そんな「わたしの心」は「わたしの心」のままでそっくり「ほとけの心」となるのです。ここが微妙なところで、「わたしの心」がすっかり「ほとけの心」になってしまうのではありませんが、でも、「わたしの心」のままでそっくり「ほとけの心」となるのです。

龍樹の『中論』の言い回しをつかえば、「わたしの心」と「ほとけの心」は「不一不異」の関係にあります。これをイメージとして言いますと、「わたしの心」と「ほとけの心」は一枚の紙の表と裏の関係と言えます。紙の表と裏は「不一」ですが、しかしこれを二つに引きはがすことはできませんから、その意味で「不異」です。それと同じように、われらの信心は、表から見ればあくまで「わたしの心」であり、「欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ」ですが、それをクルッと裏返せば、そこには「ほとけの心」があります。

「是心是仏」と言いますが、「わたしの心」と「ほとけの心」はもとから一つではありません。「ほとけの心」はどこかから「わたしの心」にやってくるのです。そして「わたしの心」に乗り移るのです。こんなふうに「わたしの心」に乗り移った「ほとけの心」が信心ですが、そのとき「わたしの心」と「ほとけの心」はもはや別ではありません。すなわち「不異」です。しかし決してすっかり一つになっているわけでもありません。一枚の紙の表と裏の関係であり、すなわち「不一」です。「行巻」に「帰命は本願招喚の勅命なり」とありましたが、このことばに帰命する「わたしの心」と招喚する「ほとけの心」が不一不異の関係であることがよく表されています。


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たとえば火、木より出でて [「信巻を読む(2)」その28]

(4)たとえば火、木より出でて

さてここで考えたいのは、曇鸞が「是心作仏、是心是仏」ということばを注釈するなかで出している「火と木の譬え」についてです。親鸞はこの譬えが、信心とは「ほとけの心」と「わたしの心」がひとつとなっていること(これが一心です)を表現して見事であると考え、これをここで出しているのに違いありません。そこでこの譬えが言おうとしていることを一文ずつ丁寧に読みほぐしていきましょう。「ほとけの心」が火、「わたしの心」が木で、「火、木より出でて」とは、木に火が点く時のように、「わたしの心」に「ほとけの心」が点火するということでしょう。近づいてきた火が木に乗り移るように、どこかからやってきた「ほとけの心」が「わたしの心」に乗り移るというイメージです。

次に「火、木を離るることを得ざるなり」ですが、火が木から離れてそれだけとして存在することができないように、「ほとけの心」は「わたしの心」とは別にそれだけとして存在することはありません(本願と信心はひとつです)。すぐ上で、近づいてきた火が木に移ると言いましたが、火がそれだけとして近づいてくることはありません、火のついた木として近づいてくるのです。そのように「ほとけの心」がそれだけで「わたしの心」にやってくることはありません、「ほとけの心」とひとつになった「わたしの心」がやってくるのです。そして火のついた木が近づいて、その火が別の木に乗り移るように、「ほとけの心」とひとつになった「わたしの心」がやってきて、その「ほとけの心」が別の「わたしの心」に乗り移るのです。そして乗り移った「ほとけのこころ」は「わたしのこころ」から離れることはありません。

次の「(火は)木を離れざるをもつてのゆゑに、すなはちよく木を焼く」ですが、「ほとけの心」は「わたしの心」から離れることはありませんから、「わたしの心」を隈なく照らし出すということでしょう。親鸞の印象的な表現では「無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たへず」(『一念多念文意』)という「わたしの心」のありさまを余すことなく照らし出し、われらは否応なくそれを眼のまえに突きつけられます。


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是心作仏、是心是仏 [「信巻を読む(2)」その27]

(3)是心作仏、是心是仏

大慈悲心である信心が成仏の正因であると述べられたあと、それを裏づけるために『論註』と『観経疏』から引かれます。

『論の註』にいはく、「かの安養浄土に生れんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発するなり」とのたまへり。

またいはく、「〈()心作仏(しんさぶつ)とは、いふこころは心よくするなり。()(しん)是仏(ぜぶつ)とは、心のほかに仏ましまさずとなり。たとへば火、木より出でて、火、木をるることを得ざるなり。木をれざるをもてのゆに、すなはちよく木を焼く。木、火のために焼かれて木すなはち火となるがごときなり」とのたまへり

光明(善導)のいはく、「この心作仏す。この心これ仏なり、心のほかに異仏ましまさず」とのたまへり。以上

『論註』の一つ目の文は、『大経』の三輩段(願生者を上輩・中輩・下輩に分けて説く段)に、往生を願う人たちは、その行のありようによって三種類に分かれても、みな一様に「無上菩提の心を発(おこ)す」と言われていることを受けて、この無上菩提心こそ往生成仏の正因であると述べています。無上菩提心とは大慈悲心に他なりませんから、大慈悲心である信心があってはじめて往生成仏がかなうという趣旨の文としてここに引用しているのです。

次いで、信心が往生成仏の正因であることを明らかにするために『論註』から二つ目の文が引かれます。この文は、『観経』の定善第八観「像観」に「なんぢら心に仏を想ふ時、その心すなはちこれ(仏の)三十二相・八十随形(ずいぎょう)(こう)なれば、この心作仏す、この心これ仏なり(是心作仏、是心是仏)」とあるのを受けて、その「是心作仏、是心是仏」を曇鸞が注釈して述べているものですが、親鸞は「この心」を「信心」とみて、この文をここ引用していす。

三つ目の善導の文も、『観経』の「是心作仏、是心是仏」を曇鸞と同じように「われらの心とは別にどこかに仏がいるわけではない」ということだと解釈しています。


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大慈悲はこれ仏道の正因なる [「信巻を読む(2)」その26]

(2)大慈悲はこれ仏道の正因なる

「この心すなはちこれ大慈悲心なり」とした後、「この心すなはちこれ無量光明慧によりて生ずるがゆゑに」と述べられます。この文のこころは、大慈悲心であるような信心がわれらにおこるのはなぜかと言えば、そのもとが「無量光明慧」としての如来であるからということでしょう。そもそもわれらに「度衆生心」すなわち「衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる」ような慈悲の心などあるはずがなく、それは如来の無量の慈悲と智慧である本願の力によるということです。つまり、われらの信心のもとは如来の本願であるがゆえに、言いかえれば、如来の本願そのものがわれらの信心になっているがゆえに、その信心が大慈悲心であることができるのです。

最後の一文「願海平等なるがゆゑに発心等し、発心等しきがゆゑに道等し、道等しきがゆゑに大慈悲等し、大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに」は『論註』を下敷きにしています。『論註』では「諸法平等なるをもつてのゆゑに発心等し」となっていますが、それを「願海平等なるがゆゑに」と言いかえているのです(その他はまったく同じです)。『論註』の文は法蔵菩薩が四十八願をおこされたことについて述べています。すなわち法蔵菩薩はすべての諸仏如来と同じように発心するがゆえに、その智慧(道)も等しく、慈悲も等しいのであって、それが成仏の正因となるのだと言っているのです。それを親鸞はわれらの信心に置き換えて、われらの信心はみな同じ本願海から生じるから、賜る智慧も慈悲も等しく、それが成仏の正因となるのであると言うのです。

大慈悲心である信心が成仏の正因であるのは、その信心のもとが如来の大慈悲心である本願であるからということです。如来の大慈悲心(本願)がわれらの大慈悲心(信心)となっているのだから、われらの信心が成仏の正因となるのです。「信ずれば仏になる」と言えるのはどうしてか。それはわれらの信心が本願に他ならないからです。われらが願っているには違いありませんが、それより前に如来が願ってくださっているから、われらは仏になることができるのです。


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この心すなはちこれ大慈悲心なり [「信巻を読む(2)」その25]

第3回 救いは如来の本願力による

(1) この心すなはちこれ大慈悲心なり

「信の一念」のつづきです。金剛の信心の人は現生に十種の益をえることが述べられたあと、次の自釈の文がきます。

宗師(善導)の「専念」といへるは、すなはちこれ一行なり。「専心」といへるは、すなはちこれ一心なり。しかれば、願成就の「一念」はすなはちこれ専心なり。専心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ深信なり。深信はすなはちこれ堅固深信なり。堅固深信はすなはちこれ決定心なり。決定心はすなはちこれ無上上心なり。無上上心はすなはちこれ真心なり。真心はすなはちこれ相続心なり。相続心はすなはちこれ淳心なり。淳心はすなはちこれ憶念なり。憶念はすなはちこれ真実の一心なり。真実の一心はすなはちこれ大慶喜心なり。大慶喜心はすなはちこれ真実信心なり。真実信心はすなはちこれ金剛心なり。金剛心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなはちこれ大菩提心なり。この心すなはちこれ大慈悲心なり。この心すなはちこれ無量光明慧によりて生ずるがゆゑに。願海平等なるがゆゑに発心等し、発心等しきがゆゑに道等し、道等しきがゆゑに大慈悲等し、大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに。

最初の文は、先に「光明寺の和尚は『一心専念』といひ、また『専心専念』といへり」と述べたのを受けて、「専心専念」の「専心」は「一心」であり、「専念」は「一行」であると指摘しています。すなわち「専心」は「信の一念」であり、「専念」は「行の一念」であるということです。善導の「一心専念」も「専心専念」も、信と行は切り離せないことを意味しており、信のあるところ、かならず行があり、行があるところ、かならず信があるということです。

このように善導の言う「専心」は成就文の「信の一念」であることを確認した上で、その専心を次々と言いかえていきます、専心⇒深心⇒深信⇒堅固深信⇒決定心⇒無上上心⇒真心⇒相続心⇒淳心⇒憶念⇒真実の一心⇒大慶喜心⇒真実信心⇒金剛心⇒願作仏心⇒度衆生心⇒大菩提心⇒大慈悲心というように。これは信心の相をさまざまな角度から述べているということですが、同時に、真実の信心は結局のところ大慈悲心に収まることを言おうとしているように思われます。


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現生十益といわゆる現世利益 [「信巻を読む(2)」その24]

(11)現生十益といわゆる現世利益

二つ目は、親鸞の言う「現生十益」は、よく言われる「現世利益」と同じだろうか、違うとすればどう違うのだろうかということです。たとえば十益の第一「冥衆護持の益」とは、信心を得ることで冥衆に護られ、病気にならないとか災害に遭わないということでしょうか。そうではないでしょう、信心の人も病気になるときは病気になり、災害に遭うときは災害に遭います。そういうことではいわゆる「現世利益」とは異なります。では「冥衆護持の益」とはどういうことかといいますと、たとえ病気になり、災害に遭うとしても、それが生きる上で障礙にならないということです。もちろん病気になり災害に遭うことは辛いことですが、でもその辛さに押しつぶされることなく生きていくことができるということです、そのように護ってもらえるということです。

しかし信心はどうしてそんな力になるのでしょう。その答えは最後の「正定聚に入る益」にあります。信心の人は正定聚としてもうすでに「永遠のいのち」のなかで救われているのですから、たとえ病気になり災害に遭うとしても、それらはみな「永遠のいのち」のなかのことです。これが「冥衆護持の益」ですが、その他の益も同じようにすでに「永遠のいのち」のなかで生かされていることから生まれてくると考えることができます。ところで現生十益のなかで「知恩報徳の益」と「常行大悲の益」はそれ以外の益と毛色が違っていますが、そのことを三つ目として考えておきたいと思います。

その他の益は自分の益すなわち自利ですが、「知恩報徳の益」と「常行大悲の益」は他を利する益すなわち利他です。今生において信心が与えてくれる利益には自利だけでなく利他もあるということは、今生では自利=往相、来生で利他=還相という思い込みをうちやぶってくれます。自利=往相と利他=還相はそのように切り離されているのではなく、自利がそのまま利他であるということです。なぜかといいますと、信心の人とは取りも直さず本願の人すなわち本願をわが願いとして生きる人であるからです。自分の救いと他者の救いがひとつになっている人だからです。

(第2回 完)


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来生の利益は [「信巻を読む(2)」その23]

(10)来生の利益は

それぞれの利益の意味に立ち入ることはしません。それよりも大事な三点について述べたいと思います。その一つ目は、親鸞はここで「かならず現生に十種の利益を獲」と言い、来生のことについては触れようとしていないということです。どこか別のところで来生の利益について述べられているかと探しても、どこにもそれらしい記述は見られませんが、これは何を意味するかということを考えておきたいと思うのです。「来生の利益」とはどういう意味でしょう。信心を得ることで現生に十種の利益があるように、来生にも何か利益があるのでしょうか。そもそも来生に利益を得るのはいったい誰でしょう。とうぜん「わたし」ということになりますが、としますと来生にも「わたし」は(かたちは変わっても)存在しつづけるということでしょうか。もしそうだとしますと、これは釈迦の言う「無我(常住の我はない)」と真っ向から抵触します。

釈迦は死後のことについては口を噤みました。これを「無記」と言いますが、死んだ後はどうなるのかとしつこく問うマールンクヤ青年に対して、釈迦はそれには答えず「毒矢の譬え」を持ち出します。汝がしていることは、毒矢を射られたものが、それを射たものの素性をしつこく知ろうとしているようなものだ、いま汝に必要なのはすぐ毒矢を抜くことだと。これは救いは「いま」にしかないということです。清沢満之はそのことをこう言います、「信念(彼は信心のことを信念と言います)の幸福は、私の現世に於ける最大幸福である。此は、私が毎日毎夜に実験(実際に経験する)しつつある所の幸福である。来世の幸福のことは、私はマダ実験しないことであるから、此処に陳(のぶ)ることは出来ぬ」(わが信念)と。彼にとって「いま」信心に救われていることで十分であるということです。

「いま」すでに「永遠のいのち」のなかで生かされているのであり、死んでから「永遠のいのち」に入るのではありません。ですからそれに気づく(その信を賜る)だけでもう十分ではありませんか、もうすでに「永遠のいのち」のなかで救われているのですから、死んでからのことをあれこれ考える必要があるでしょうか。


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現生十益 [「信巻を読む(2)」その22]

(9)現生十益

十八願成就文の注釈につづいて、本願力回向の信心を得ることにより現生で十の利益があることが述べられます。

金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難(五趣は地獄・餓鬼・畜生・人・天の五道。八難は仏・法を見聞することが難しい八つの境界)の道を超え、かならず現生に十種の利益を獲。なにものをか十とする。一には冥衆護持(観音・勢至などの菩薩や梵天・帝釈などの諸天神などに守護されること)の益、二には至徳具足の益、三には転悪成善の益、四には諸仏護念の益、五には諸仏称讃の益、六には心光常護の益、七には心多歓喜の益、八には知恩報徳の益、九には常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。

ここであらためて「信の一念」を思い起こしましょう。「ふたごころなき」信心が開け発る「ときのきはまり」が「信の一念」でした。親鸞はこの「ときのきはまり」を言い表すことばとして善導の「前念命終、後念即生」を持ち出し、こう言います、「本願を信受するは、前念命終なり。『すなはち正定聚の数に入る』(論註)と。即得往生は、後念即生なり。『即の時必定に入る』(易行品)と」(『愚禿鈔』)。善導がこのことばで言っているのは文字通りいのち終わるときのことですが、親鸞はそれを信心のおこる「ときのきはまり」のこととするのです。「信楽開発の時剋の極促」に、それまでの古いいのちが終わり、そして正定聚としての新しいいのちが生まれるということです。

その「ときのきはまり」に十種の利益を得ることになるというのです。『愚禿鈔』の引用から明らかなように、十種の利益のなかで最後の「正定聚に入る益」がその核心と言えます。これがすべての利益の根っ子にあり、そこから他の九種の利益が生じてくるということです。「正定聚に入る」とは「かならず仏となるべき身となる」(親鸞の注釈)ことですが、それを「わたしのいのち」がそのままで「ほとけのいのち」に摂取され、「ほとけのいのち」として生きることと言いかえることができます。これがあるからこそ、他のすべての利益が生まれてくるのです。


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信心二心なきがゆゑに一念といふ [「信巻を読む(2)」その21]

(8)信心二心なきがゆゑに一念といふ

仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」とありますのは、「仏願の生起本末」を聞くだけでなく、それを通して「仏願そのもの」の「こえ」が聞こえて、それにゲットされているからです。ただ「仏願の生起本末」を聞くだけでしたら、それに対して疑心がおこることはいくらでもあるでしょう。いやむしろ疑心がおこるのが普通というべきです。しかし「仏願の生起本末」を聞くことを通して「仏願そのもの」の「こえ」が聞こえてきますと、それがそのまま仏願信受となります。このように聞と信がひとつになっていますから(聞即信)、そこに疑いのおこる余地はまったくありません。

それにつづいて「すなはち本願力回向の信心なり」とあるのも同じことを言っています。本願力回向の信心とは、本願がそのまま信心となっているということで、本願と信心はひとつであるということです。

そしてその後さらに「一念といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく」と言われます。先には「一念」とは「信楽開発の時剋の極促」のことと言われていましたが、ここでは「信心二心なき」こととされます。前者は信心の「ときのきはまり」を意味し、後者は信心の「ふたごころなきこと」を意味します(前者は一念の時剋釈、後者は信相釈とよばれます)。「ふたごころなき」とは、「ほとけの心(願心)」と「われらの心(信心)」がひとつであるということです。ですから「これを一心と名づく」と言われるのです。

そして最後に「一心はすなはち清浄報土の真因なり」と締めくくられます。「ほとけの願心」と「われらの信心」が「一心」となっているのですから、その「一心」が「清浄報土」への往生の真因となるのです。いや、もう一歩ふみ込んで、「一心」と「往生」はひとつであると言うべきでしょう。「一心」であることが、取りも直さず「往生」しているということです。これが成就文に「かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」と言われている意味です。


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