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仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし [「信巻を読む(2)」その20]

(7)仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし

先に引かれた第十八願成就文「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん」について親鸞が注釈します。

しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予(えつよ、喜び)を形(あらわ)すの貌(かおばせ)なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言(ことば)なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。

最初の一文、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふ」についてあらためて考えてみましょう。成就文では「その名号を聞きて」とあるのに、親鸞は「仏願の生起本末を聞きて」と言いますが、これをどう理解すべきでしょうか。『一念多念文意』にも成就文の注釈がありますので、それを参照しますと、「〈聞其名号〉といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを〈聞〉といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり」とあり、「本願の名号をきく」あるいは「本願をきく」というだけで「生起本末」ということばはありません。親鸞はどうしてここで「生起本末」ということばをつけ加えたのでしょう。

生起本末とは平たく言えば「いわれ」でしょう。どんなわけで本願が生まれてきたか、その経緯のことです。『教行信証』の解説書を読みますと、「名号を聞く」という文が出てきますと、かならずと言っていいほど「名号のいわれを聞く」と説明してありますが、そのもとがここにあると考えられます。さあしかし成就文には「その名号を聞く」とあるのですから、これは『一多文意』が言うように、「本願の名号を聞く」としか考えられません。ただ本願の名号は、それだけ裸で中空から舞い降りてくるのではなく、誰かのことばを通してやってくるしかありません。その誰かのことばが「本願名号のいわれ」でしょう。われらはどなたか(あるいは経典)から「本願名号のいわれ」を聞かせていただき、それを通して「本願名号のこえ」を聞くのです。

われらは「本願名号のいわれ」をゲットしますが、それを通して聞こえてくる「本願名号のこえ」にゲットされるのです。


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ことばが「わたし」をゲットする [「信巻を読む(2)」その19]

(6)ことばが「わたし」をゲットする

われらはさまざまなものをゲットすることで生きています。衣食住は言うまでもなく、地位や名誉やさらには愛情もゲットしなければなりません。そしてそのためには、ことばをゲットする必要があります。人のことばを聞き、それを理解し、そして反応することが求められます。それらのすべては「わたしのいのち」を維持するためであり、したがってそのために有用であるかどうかということが関心事となります。「わたしのいのち」にとって有用であるものが善きもので、有害なものは悪しきもの、どちらでもなければ無用です。このようにわれらがことばをゲットするときには、それが「わたしのいのち」に有用であるかどうかという規準で判断され、そのようなバイアスがかかっています。

これが普通にことばを聞くということで、「わたし」がことばをゲットしています。

ところが、ときにことばが「わたし」をゲットすることがあります。「聞其名号」とはそのような特別な経験で、南無阿弥陀仏ということばが「わたし」を鷲づかみするのです。南無阿弥陀仏ということばが中空から舞い降りてくるわけではありません、人のことばを通して南無阿弥陀仏の「こえ」が聞こえてくるのです。親鸞の場合、「念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」という「よきひと」法然のことばを通して、「念仏してわれにたすけられまゐらすべし」という弥陀招喚の「こえ」が聞こえてきたのです。そのときこの「こえ」が親鸞を鷲づかみしています。

これが、ことばが「わたし」をゲットするということで、南無阿弥陀仏のことばに「わたし」がゲットされたとき、「わたし」は「わたしのいのち」のままで、すでに「ほとけのいのち」に包み込まれています。時間のなかに「永遠のいのち」があらわれ、そのなかで生かされています。だからこそ「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」という驚くべきことばが親鸞の口をついて出るのです。

最後の「一心専念」「専心専念」については、すぐ後で親鸞自身の注釈がありますので、そのときに述べましょう。


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聞不具足 [「信巻を読む(2)」その18]

(5)聞不具足

次に『涅槃経』から「聞不具足」の文と、『観経疏』から「一心専念」と「専心専念」の語が引かれます。

『涅槃経』にのたまはく、「いかなるをか名づけて聞不具足とする。如来の所説は十二部経(経典を形式や内容により十二に分類したもの)なり。ただ六部を信じていまだ六部を信ぜず、このゆゑに名づけて聞不具足とす。またこの六部の経を受持すといへども、読誦にあたはずして他のために解説(げせつ)すれば利益するところなけん。このゆゑに名づけて聞不具足とす。またこの六部の経を受けをはりて、論議のためのゆゑに、勝他のためのゆゑに、利養のためのゆゑに、諸有のためのゆゑに持読誦説せん。このゆゑに名づけて聞不具足とす」とのたまへり。以上

光明寺の和尚は「一心専念」といひ、また「専心専念」といへり。以上

まず『涅槃経』の文ですが、先の菩提心釈のところで「信不具足」と「聞不具足」について言及されていました。いずれも信心の肝心要のところが抜け落ちているということですが、「信不具足」についてはすでに信楽釈のなかで『涅槃経』の文が引用されていました。それにつづく「聞不具足」についての文がここで引用されているのです。もちろん十八願成就文の「聞其名号」との関連です。名号を「聞く」ことが本願を「信じる」ことに他ならないのですが、そもそも「聞く」とはどういうことかを『涅槃経』の文から考えようということでしょう。

ここで言われているのは、釈迦の教えの半分だけを聞いてよしとしていること、そして何かの「ために」利用しようとして聞くことが「聞不具足」だということですが、その根底にあるのは、聞こえてくることばが「こころに届く」ことはなく、ただ「あたまに届いている」だけということではないでしょうか。聞こえてきたことばを「あたまで理解している」だけで、そのことばが「こころに響いていない」ということです。「ことば〈を〉」と「ことば〈が〉」の違いに注目しましょう。前者はわれらがことばをゲットしていますが、後者はことばがわれらをゲットしています。


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よく一念の浄信を発して歓喜せん [「信巻を読む(2)」その17]

(4)よく一念の浄信を発して歓喜せん

親鸞はこの第十八願成就文を読み、これはわれらに信がおこる「ときのきはまり」の名状しがたいありようを伝えようとしていると感じられたのに違いありません。この後、『涅槃経』と善導のことばの引用を挟んで、親鸞はこの文を注釈していますが、そこにこうあります、「しかるに『経』に〈聞〉といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」と。このように親鸞は「聞」ということばに着目し、名号が聞こえることは、そのまま本願を疑いなく信受することに他ならないと理解して、名号が聞こえ信心がおこる名状しがたい「とき」のありようを、そしてその信心のありようを「一念」ということばがあらわしていると受けとめたと思われます。

親鸞がこれを「信の一念」としたもう一つの理由が、二つ目の文、『如来会』の成就文にあります。そこに「無量寿如来の名号を聞きてよく一念の浄信を発して歓喜せん」とあり、「一念の浄信」と言われています。『大経』の「信心歓喜」が『如来会』では「浄信を発して歓喜せん」とされ、いずれも信心の慶び(先の「広大難思の慶心」)を言い表していますから、そこからこの一念は「行の一念」ではなく「信の一念」だと理解したのに違いありません。

そして三つ目の文、これは『大経』下巻の「往覲偈(おうごんげ、往覲とは往ってまみえるの意)」にあるものですが、省略せずに出しますと、「その仏の本願の力、名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に致る」とあり、十八願成就文と言い方は少し違うものの、言っていることはぴったり重なります。そしてここに「その仏の本願の力」の回向によるとあることによって、親鸞が成就文の「至心回向」を、われらが「至心に回向して」ではなく、如来が「至心に回向したまへり」と読まざるを得なかったことがよく理解できます。そしてここから成就文の「一念」はわれらが回向する「行の一念」ではないことがあらためて明らかになります。

最後の『如来会』の文は『大経』「往覲偈」の文に相当するもので、これを引くことにより信心とは「仏の聖徳の名を聞く」ことであることを再度確認しています。


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乃至一念せん [「信巻を読む(2)」その16]

(3)乃至一念せん

「信の一念」をあらわす経文が上げられます。

ここをもつて『大経』にのたまはく、「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」と。

また(『如来会』)、「他方仏国の所有の衆生、無量寿如来の名号を聞きてよく一念の浄信を発して歓喜せん」とのたまへり。

また(『大経』)、「その仏の本願の力、名を聞きて往生せんと欲(おも)はん」とのたまへり。

また(『如来会』)、「仏の聖徳の名を聞く」とのたまへり。以上

最初の第十八願成就文は「信巻」のはじめに引用され、その後も「信楽釈」と「欲生釈」でも引かれていますが(親鸞がこの文を如何に重んじていたかがよく分かります、この文に『大経』のエッセンスが凝縮されていると見ているということです)、ここでは「乃至一念」の「一念」が「信の一念」であることを言うために出されます。繰り返しになりますが、まずはこの文の通常の読みと親鸞独自の読みとを比較しておきましょう、そのことでこの「一念」が「信の一念」であることが浮び上がるからです。

「聞其名号信心歓喜乃至一念至心回向願生彼国即得往生住不退転」を普通に読みますと、「その名号を聞きて信心歓喜し、すなはち一念に至るまで至心に回向して、かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生することを得て、不退転に住せん」となりますが、親鸞は「乃至一念」を「乃至一念せん」とそこで一旦切り、次の「至心回向」を「至心に回向したまへり」と独立させます。普通に「一念に至るまで至心に回向して、かの国に生ぜんと願ずれば」とつづけて読みますと、たった一度の念仏であっても、それを心から回向して往生したいと願いますと、という意味で、この「一念」は「行の一念」となります。

親鸞までは法然も含めてみなそう読んでおり、この「一念」を「行の一念」と理解してきました。もとの第十八願は「心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念せん」で、「乃至十念」は「行の十念」であることは明らかですから、その成就文の「一念」も「行の一念」と理解するのはきわめて自然です。ところが親鸞はこれを「信の一念」すなわち「信楽開発の時剋の極促」であるとするのですが、そこにはどのような心の動きがあるのでしょう。


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永遠といま [「信巻を読む(2)」その15]

(2)永遠といま

しかし「永遠の本願がいまはじまる」とはいったいどういうことでしょう。どこかから、「お前は自分が何を言っているのか分かって言っているのか」という突っ込みが入りそうな気がします。そもそも永遠などというものがわれらの手に負えるものなのかどうか、これが問題です。われらは永遠なるものをどうあってもつかまえることはできません。つかまえたと思った瞬間、それはもう永遠ではなくなっています。つかまえるということは時間・空間のなかに位置づけることに他なりませんから。では永遠なるものはただの幻影でしょうか。とんでもありません、われらは本願という永遠なるものに生かされて生きています。

われらは永遠の本願をどうあってもつかまえることはできません、でも永遠の本願がわれらを否応なくつかまえるのです。われらは気がついたら永遠の本願につかまえられて、そのなかにいます。親鸞の言い回しでは永遠の本願は「もの(人です)の逃ぐるを追はへとる」のです。そのときわれらは永遠の本願のなかで生かされています。これが永遠の本願が「いま」はじまるということです。こんなふうに、永遠なるものが信心の「いま」、時間のなかに姿をあらわすのです。

そのことをこれまで「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であるという言い方で述べてきました。「わたしのいのち」とは「ミタ(有量)のいのち」で、「ほとけのいのち」とは「無量(アミタ)のいのち」です。われらは「有量のいのち」を生きていますが、そして信心がおこるまでは、ただひたすら「有量のいのち」を生きるだけでしたが、「信楽開発」の「ときのきはまり」に、「有量のいのち」のままですでに「無量のいのち」のなかにあることに気づかせてもらうのです。「有量のいのち」であるままで「無量のいのち」を生きることになるのです。これが「永遠の本願がいまはじまる」ということです。

われらは生が終わったあとに、死がはじまると思っています。そして何となく死が永遠だろうと思っています。しかし信心がおこってみますと、いまもうすでに永遠がはじまっているのです。いまもうすでに「永遠のいのち」のなかにいることに気づくのですから、この気づきは「広大難思の慶心」と言わなければなりません。


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信心開発の時剋の極促 [「信巻を読む(2)」その14]

第2回 信の一念

(1) 信楽開発の時剋の極促

これまで「横超の菩提心」が主題でしたが、次に「信の一念」が取り上げられます。まずは親鸞の自釈です。

それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発(かいほつ)の時剋の極促(ごくそく)を顕し、広大難思の慶心(きょうしん)を彰すなり。

真実の信心(菩提心)は如来回向の信心(横超の信心)であることが述べられてきましたが、これから、その信心がわれらにおこる「時」を「信の一念」として明らかにされていきます。すでに「行巻」にこう言われていました、「おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり。行の一念といふは、いはく、称名の遍数(へんじゅ、回数)について選択易行の至極を顕開す」と。このように「行の一念」について述べられたのを受けて、今度はここ「信巻」で「信の一念」について明らかにしようということです。

「念」という文字は、仏教においては「非常に短い時間」という意味でつかわれることがありますが、一般には「心に思う」という意味です。本文で一念とは「信楽開発の時剋の極促を顕す」とありますのは、前者の「短い時間」の意味で言われており、「広大難思の慶心を彰す」と言われるのは後者の意味です。さて「時剋の極促」ですが、これは「ときのきはまり」(『一念多念文意』)ということで、信楽開発の時剋の極促」とは信心がわれらに開け発(おこ)る、その「ときのきはまり」を意味します。しかしこの「ときのきはまり」は、普通の時間のなかのある瞬間ということではないでしょう。親鸞は信楽開発の時剋の極促」という印象的なことばで何か特別なことを伝えようとしていたのに違いありませんが、それはいったい何でしょう。

先回の終わりのところでこう言いました、永遠の本願は信心の「いま」はじまると。本願は永遠なるものですが(本願とは「無量のいのち」の「ねがい」ですから永遠なるものです)、しかしそれはわれらひとり一人の信心としてしか存在しませんから(一人ひとりの信心を離れてどこかに存在するものではありませんから)、われらひとり一人の信心のはじまる「いま」、本願もまたはじまると言わなければなりません。「信楽開発の時剋の極促」とはその「いま」であり、永遠の本願が「いま」はじまるのです。


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なほし掌をかへすがごとく [「信巻を読む(2)」その13]

(13)なほし掌をかへすがごとく

用欽も戒度も元照の弟子で、ここに引用されているのは師匠の『阿弥陀経義疏』を注釈している文です。最後の『楽邦文類』は南宋の宗暁が編集しましたが、この後序は光遠(こうおん)によるものです。いずれも先の元照の文と同じ趣旨で、浄土の教えは「なほし掌をかへすがごとく…易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん」ことを述べています。「ただ信ずるだけ」で往生し成仏できると言われると、そんな簡単なことで救われるはずがないと疑うということです。このように浄土の教えには「易しいからこそ難しい」という逆説があります。

本願はそれに気づいて(信じて)はじめて存在し、気づかないと(信じないと)どこにもありません。本願があるから信心(気づき)があるのはもちろんですが、同時に、信心(気づき)があってはじめて本願があります。本願は十劫の昔に成就したと言われますから(経典にそう書いてありますから)、本願は十劫の昔から(つまりは永遠に)存在していると思いますが、あにはからんや、本願は信心のときにはじめて存在するようになるのです。信心が本願をはじめてつくるわけではありません、信心は永遠の本願に気づくだけです。でも気づかなければどこにもないのですから、その意味で本願は信心のときにはじめて存在することになるのです。

「永遠」の本願が、信心の「いま」存在しはじめるのです。

これが「ただ信じるだけ」と言われる意味です。ただ本願に気づくだけで「なほし掌をかへすがごとく」救われるのです。「いのち、みな生きらるべし」という「ねがい」がわれらにかけられていることに気づくだけで、もうその「ねがい」に摂取不捨され、「すでにつねに浄土に居す」ことになるのです。しかしこの「ただ信じるだけ」が難しい。なぜか。『楽邦文類』の文が言うように、そこには「自障自蔽」があると言う他ありません。『論註』に「蚕繭(さんけん)の自縛」ということばがありますが、まさに蚕がみずからの糸で自縄自縛して身を守っているように、われらも「わたしのいのち」を我執でグルグル巻きにして、本願の気づきを自障自蔽しているのです。

(第1回 完)


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易往而無人(いおうにむにん) [「信巻を読む(2)」その12]

(12)易往而無人(いおうにむにん)

本願念仏の法は難信であるという文がつづきます、一気に読みましょう。

律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡(凡夫)を転じて聖(聖者)となすこと、なほし掌をかへすがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』に易往而無人(いおうにむにん、往き易くして人なし)といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。

『聞持記』(元照の弟子、戒度の著で、元照の『阿弥陀経義疏』の注釈)にいはく、「愚智をえらばずといふは、性に利鈍あり。豪賤をえらばずといふは、報に強弱(ごうにゃく)あり。久近を論ぜずといふは、功に浅深あり。善悪をえらばずといふは、行に好醜あり。決誓猛信を取れば臨終悪相なれどもといふは、すなはち『観経』の下品中生に地獄の衆火、一時にともに至ると等(ら)いへり。具縛の凡愚といふは、二惑(見惑すなわち真実が見えないことによる迷いと、思惑すなわち感覚的、肉体的な迷い)まつたくあるがゆゑに。屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり、一切世間甚難信といふべきなりといふは、屠はいはく、殺を宰(つかさど)る、沽はすなはち醞売(うんばい、酒を売ること)、かくのごときの悪人、ただ十念によりてすなはち超往を得、あに難信にあらずや。阿弥陀如来は真実明、平等覚、難思議、畢竟依(ひっきょうえ)、大応供(だいおうぐ)、大安慰、無等等、不可思議光と号したてまつるなり」と。以上

『楽邦文類』(楽邦すなわち浄土に関する文の集成)の後序にいはく、「浄土を修するものつねに多けれども、その門を得てただちにいたるものいくばくもなし。浄土を論ずるものつねに多けれども、その要を得てただちにおしふるものあるひはすくなし。かつていまだ聞かず、自障自蔽(みずからさとりを遮蔽すること)をもつて説をなすことあるもの。得るによりて、もつてこれをいふ。それ自障は愛(貪愛)にしくなし。自蔽は疑にしくなし。ただ疑・愛の二心つひに障礙なからしむるは、すなはち浄土の一門なり。いまだはじめて間隔(けんきゃく、隔てる)せず。弥陀の洪願(洪は大の意。大願、弘願ということ)つねにおのづから摂持したまふ。必然(ひつねん)の理なり」と。以上


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われらひとり一人のなかにプーチンが [「信巻を読む(2)」その11]

(11)われらひとり一人のなかにプーチンが

この世界はまさに五濁悪世と言わなければなりません。とりわけこのところのウクライナの状況は、その映像を観るのがほんとうにつらいものがあります。少し前はトランプという人の顔がニュースで流れるたびに心が重く沈み込んだものですが、いまはプーチンという人の顔を見ると心が一気にしんどくなります。彼はわれらのなかにある醜いものをこれでもかと見せつけ、まさにこの世は五濁悪世であることを如実に示してくれています。それなのになぜ「娑婆は娑婆のままですでに浄土」などと言えるのか、この世界のなかでただ本願を信じるだけでどうして救われるのか。そんな教えはとても信じられないということ、これが甚難信ということです。

プーチンという人をとんでもない悪党であり、しょせん自分とは縁のない人間であると見ているだけでしたら、あるいはこの世は五濁悪世であると言いながら、自分をどこかその埒外においているのでしたら、あの悪党を退治して世の中をよくしなければという思いが出てくるだけでしょう。しかしよくよく考えなければならないのは、われらひとり一人のなかにプーチンがいるのではないかということです。ニュース映像でプーチンの顔を見るたびになぜこうも心が重く沈み込むのかと考えてみますと、彼のなかにあるものは、われらひとり一人のなかにもあると感じるからではないでしょうか。ただ幸いにもそれが外に出ずに済んでいるだけではないでしょうか。それを見せつけられているように感じられて、彼の顔を見てしんどくなると思うのです。

われらのなかにプーチンがいるということは、われらが自分でそう思うというよりも、プーチンを「悪党め」と罵るとき、どこかから「そういうお前はどうなのか」という「こえ」が聞こえてくるということです。「お前は彼と無縁だと言えるのか」という「こえ」が突き刺さってくるのです。それは「ほとけのこえ」であり、そのときわれらは「ほとけ」に遇っています。そしてそのとき「ほとけ」の「いのち、みな生きらるべし」という「ねがい」に遇っているのです。「お前も悪党である」という「こえ」は、「そんなお前を救おう」という「こえ」と一緒に聞こえてきます。かくして「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」でありながら、「すでにつねに浄土に居す」という摩訶不思議なことが起るのです。


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