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環世界 [「信巻を読む(2)」その61]

(3)環世界

突然ですが、エストニア出身の生物学者、ユクスキュルの話です。彼はそれぞれの生きものはそれぞれに特有の知覚世界に生きているとして、それを環世界(Umwelt)と呼びました。ゾウはゾウの環世界に生き、ダニはダニの環世界に居るのであり、それぞれの環世界はみな異なります。仏教にも身土一如という考えがあります。身(主体)とその身が生きる世界(土)は一体であって切り離すことができないということです。ときどき「こんな世界にはもう我慢のならない」と思う人が、「誰でもいいから殺したい」と通りがかりの人を刺し殺すことがありますが、その人(身)と「我慢のならない世界」(土)は一体であって切り離すことができません。「我慢のならない世界」とはその人がつくり上げている知覚世界であり、その人はみずから造っている知覚世界を生きているのです。

浄土というのも弥陀に摂取不捨され正定聚となった人の環世界であり、その人が造り上げている知覚世界であるということができます。ではそれはどのような環世界、知覚世界かと言いますと、それはまさに本願の世界であり、信心の人は本願の世界に住んでいるのです。本願の世界とは「いのち、みな生きらるべし」という「ねがい」があらゆるいのちにかけられている世界、親鸞の印象的なことばでは「一切の有情はみなもつて世々生々の父母兄弟」(『歎異抄』第5章)である世界です。そのような世界がここではないどこかにあるのではありません、「ここ」がその世界であり、信心の人は「いま」その世界に住んでいるのです。

大急ぎで言わなければならないのは、信心の人が住んでいる本願の世界は、同時に煩悩の世界であるということです。煩悩の世界とは自他が相剋しあう世界ですが、信心の人はこの煩悩の世界のただなかを生きながら、同時に本願の世界に生きているのです。煩悩の世界すなわち穢土は穢土であるがままで、本願の世界すなわち浄土です。コインの表は穢土ですが、それをクルッと裏返すとそこには浄土があります。正信偈に「惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ」とあるのはそのことで、生死が終わってから涅槃があるのではありません、生死がそのままで涅槃です。信心を発するとは、そのことを証知することに他なりません。


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そもそも浄土とは [「信巻を読む(2)」その60]

(2)そもそも浄土とは

「お浄土に参れるのでしょうか」と問うお婆さんにとって浄土は「死んでから往くところ」ですが、さて浄土とはこことは別のどこかにある世界でしょうか、そしてそこへは死んでから往くのでしょうか。善導の書くものを読む限り、どう見ても浄土は死んでから往くところとしか思えません。この少し先に引用されるところでも「命を捨ててすなはち諸仏の家に入らん、すなはち浄土これなり」と出てきます。しかしその一方で善導は「浄土対面してあひ忤はず」と言いますし、先には「欣へばすなはち浄土につねに居せり」ともありましたが、これらは「もうすでに浄土に居るではないか」と言っているようにも聞こえます。浄土は「これから」往くところでしょうか、それとも「もうすでに」居るところでしょうか。

親鸞に聞いてみましょう。『一念多念文意』で第十八願成就文の「即得往生(すなはち往生を得)」についてこう述べています、「〈即得往生〉といふは、〈即〉はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。また〈即〉はつくといふ。その位に定まりつくといふことばなり。〈得〉はうべきことをえたりといふ。真実信心をうれば、すなはち無礙光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを〈往生を得〉とはのたまへるなり」と。これで見ますと、往生とは正定聚の位、すなわち必ず仏になることが定まる位につくことを意味し、それは信心を得たその時であることが分かります。

もう一つ上げますと、親鸞が関東の弟子衆に宛てた手紙にこうあります、「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり」(「御消息集」第1通)と。これまた信心とは摂取不捨されることであり、そのとき正定聚の位につくが、それが往生に他ならないとはっきり述べています。これらを見る限り、浄土へ往生するとは、ここではないどこかに往くことではなく、弥陀の心光に摂取され正定聚の境位につくことを意味しているのが明らかです。としますと、浄土とは弥陀の心光に摂取され正定聚となった人が「いますでに」住んでいる世界であるということになります。


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浄土対面してあひ忤はず [「信巻を読む(2)」その59]

第6回 ただ念仏するもののみありて

(1) 浄土対面してあひ忤はず

真仏弟子釈のつづきです。『安楽集』からの引用のあと、善導の諸著作から多くの文が引かれます。まずは『般舟讃(はんじゅさん)』です。

光明師のいはく、「ただ恨むらくは、衆生の疑ふまじきを疑ふことを。浄土対面してあひ忤(たが)はず。弥陀の摂と不摂とを論ずることなかれ。意(こころ)専心にして回(え)すると回せざるとにあり。乃至 あるひはいはく、今(きょう)より仏果に至るまで、長劫(じょうごう)に仏を讃めて慈恩を報ぜん。弥陀の弘誓の力を蒙(かぶ)らずは、いづれの時いづれの劫にか娑婆を出でんと。乃至 いかんが今日宝国(浄土)にいたることを期せん。まことにこれ娑婆本師(釈迦)の力なり。もし本師知識の勧めにあらずは、弥陀の浄土いかんしてか入らん」と。

少し前の横超断四流釈のところでも『般舟讃』から「厭へばすなはち娑婆永く隔つ、欣へばすなはち浄土につねに居せり」という印象的な文が引かれていましたが、ここでも最初の「ただ恨むらくは、衆生の疑ふまじきを疑ふことを。浄土対面してあひ忤はず。弥陀の摂と不摂とを論ずることなかれ。意専心にして回すると回せざるとにあり」という文が心に残ります。法然はこの『般舟讃』を是非とも読みたいものだと周囲に漏らしていたそうですが、この文などのように感銘深い文に満ちた書です。

もう浄土は目の前にあるではないか(「浄土対面してあひ忤はず」)、どうして疑うのか。弥陀がわれらを浄土へ往生させてくださることは言うまでもない、わがはからいを捨てて他力に乗ずるかどうか(「回すると回せざると」)が問題なのだという趣旨ですが、これを手がかりにあらためて「そもそも浄土とは何か」ということを考えておきたいと思います。いのちの終わりを前にした熱心な門徒のお婆さんが、診察にきてくれたこれまた門徒のお医者さんに、「先生、わたしは死んだ後お浄土に参れるのでしょうか」と尋ねたという話を思い出します。善導ならそのお婆さんに「浄土対面してあひ忤はず。弥陀の摂と不摂とを論ずることなかれ」と答えることでしょう。


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報恩のためのゆゑに [「信巻を読む(2)」その58]

(12)報恩のためのゆゑに

ここでは『安楽集』のさまざまな箇所から、『大智度論』と『大経』と『大悲経』の三つの文が引かれています。『大智度論』の文は「なぜ念仏か」について論ずる中に出てくるもので、これを要するに仏のお陰を蒙って真実に遇うことができたという大恩があるからこそ、つねに仏を憶念するのだということです。二つ目の『大経』の意を取って述べられている文は「なぜ発菩提心か」について論じ、自利利他円満の菩提心を起こすことこそ仏道の要であると述べています。そして最後の『大悲経』の文は「大悲とは何か」について、「展転してあひ勧めて念仏を行ずる」ことこそ大悲の行であることを指摘しています。これらの文は、真の仏弟子(念仏の行者)には「知恩報徳の益」や「常行大悲の益」があることを述べようとしていると思われます。

念仏とは何かという原点に立ち返りましょう。「いのち、みな生きらるべし」という弥陀の「ねがい」(本願)が「南無阿弥陀仏」の「こえ」(名号)としてわれらに聞こえたとき(聞其名号のとき)、われらの心に慶びがあふれ(信心歓喜)、それが「南無阿弥陀仏」の「こえ」として口をついて出る、これが称名念仏です。ここまではあくまで本願名号が届いた人自身のことですが、さてしかしことはそれで終わりません。その人の口をついて出た「南無阿弥陀仏」の「こえ」は他の誰かに届けられることになるということです。本人にはそんな意識はなく、ただ摂取不捨の利益にあずかった慶びの発露としての念仏ですが、それが図らずも利他教化のはたらきをするのです。

「ほとけのいのち」に摂取不捨された慶びが南無阿弥陀仏の「こえ」となって口をついて出ることが「知恩報徳」の念仏であり、その「こえ」が衆生教化のはたらきをするということが「常行大悲」の念仏です。すぐ前のところで、真実のことばを受信すると、それを発信せざるを得なくなると言いました(10)。南無阿弥陀仏という真実のことばを受信することは往相ですが、それはおのずから南無阿弥陀仏を発信するという還相となるのであり、往相と還相は別ものではありません。

(第5回 完)


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諸仏護念 [「信巻を読む(2)」その57]

(11)諸仏護念

さて『涅槃経』からの二つの文は、諸仏世尊が真の仏弟子をつねに「現に前にましますがごとく」に見まもってくださるということで、「諸仏護念の益」について述べていますが、この諸仏世尊とはすなわち「真実のことば」に他なりません。われらはいつも真実のことばに見まもられていますから、この娑婆世界を安心して生きることができるのです。真実のことばは一旦われらの心にやってきたら、もう離れることはありません。木に点いた火は木を離れることがないように、真実のことばはつねにわれらの傍にいて、われらを見まもってくれるのです。

『安楽集』からの引用の後半です。

『大智度論』によるに、三番の解釈(げしゃく)あり。〈第一には、仏はこれ無上法王なり、菩薩は法臣とす。尊ぶところ重くするところ、ただ仏世尊なり。このゆゑにまさにつねに念仏すべきなり。第二に、もろもろの菩薩ありて、みづからいはく、《われ曠劫よりこのかた、世尊われらが法身、智身(報身に当たる)、大慈悲身(応身に当たる)を長養したまふことを蒙ることを得たりき。禅定・智慧・無量の行願、仏によりて成ずることを得たり。報恩のためのゆゑに、つねに仏に近づかんことを願ず。また大臣の、王の恩寵を蒙りてつねにその王を念(おも)ふがごとし》と。第三に、もろもろの菩薩ありて、またこの言をなさく、《われ因地にして悪知識に遇ひて、波若(はにゃ、般若、仏の智慧)を誹謗して悪道に堕しき。無量劫を経て余行を修すといへども、いまだ出づることあたはず。後に一時において善知識の辺(ほとり)によりしに、われを教へて念仏三昧を行ぜしむ。その時に、すはなちよくしかしながらもろもろの障、まさに解脱することを得しめたり。この大益あるがゆゑに、願じて仏を離れず》〉と。乃至 『大経』にのたまはく、〈おほよそ浄土に往生せんと欲はば、かならず発菩提心を須(もち)ゐるを源とす。いかんとなれば、菩提はすなはちこれ無上仏道の名なり。もし発心作仏せんと欲はば、この心広大にして法界に周遍せん。この心長遠にして未来際(みらいさい)を尽す。この心あまねくつぶさに二乗の障(二乗は声聞と縁覚。自利のみを求める小乗の障りをいう)を離る。もしよく一たび発心すれば、無始生死の有輪を傾く〉と。乃至 『大悲経』にのたまはく、〈いかんが名づけて大悲とする。もしもつぱら念仏相続して断えざれば、その命終に随ひてさだめて安楽に生ぜん。もしよく展転してあひ勧めて念仏を行ぜしむるは、これらをことごとく大悲を行ずる人と名づく〉」と。以上抄出


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発信と受信 [「信巻を読む(2)」その56]

(10)発信と受信

すぐ前のところで「法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばば、すなはちわが善き親友なり」という『大経』の文が出てきました。釈迦はわれらの師であり、われらは仏弟子であるはずなのに、どうして釈迦は弟子を「親友」と呼ぶのかといいますと、釈迦もまた真実のことばを聞く人であるからであり、「法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ぶ」という点において弟子と何も変わりませんから、弟子は弟子でありながら同時に「わが善き親友」であるわけです。釈迦は法(真実のことば)を発信する医者ですが、同時に法を受信する病者でもあり、その点において弟子と同じ立場(御同朋、御同行)にあるということです。

釈迦が真実のことばを発信できるのは、それを受信したからであり、真実のことばを受信すれば、それを発信せざるをえなくなるのです。そして釈迦の発信した真実のことばを受信した人(真の仏弟子)は、またそれを発信せざるをえなくなり、かくして真実のことばは人から人へ次々に受け渡されていくことになります。しばしば言いますように、本願名号は人から人へとリレーされていくのです。しかしここで疑問がおこるかもしれません。どうして真実のことば(本願名号)を受信した人は、それを発信せざるをえないのか。それを自分のこころのなかにとどめて、誰にも発信しないということも十分考えられるではないか、と。

この疑問には「所有」の観念が顔を覗かせています。すなわち、自分でキャッチしたのだから「わがもの」であり、それをどうするかは自分の裁量だという発想があります。しかしあらためて確認しておきたいのですが、真実のことば(本願名号)はわれらが「わが力」でキャッチするものではありません。逆です。真実のことばがその力でわれらをキャッチするのです。真実のことばはその力でわれらのもとにやってきて、われらを救うはたらきをし、そしてまたその力で別の人のところに移っていくのです。そこに「わが力」の入る余地はまったくありません。


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医者と病者 [「信巻を読む(2)」その55]

(9)医者と病者

次に道綽の『安楽集』から引かれます。長いので前後に分け、まずその前段。

『安楽集』にいはく、「諸部の大乗(さまざまな大乗経典)によりて説聴の方軌(教えを説くもの、聞くものの心得)を明かさば、『大集経(だいじっきょう)』にのたまはく、〈説法のひとにおいては、医王の想(おもひ)をなせ、抜苦の想をなせ。所説の法をば甘露(サンスクリットのアムリタ。神々の飲み物で不死の功能がある)の想をなせ、醍醐(牛乳を精製して造った最高の美味)の想をなせ。それ聴法のひとは、増長勝解の想をなせ、癒病の想をなせ。もしよくかくのごとき説者・聴者は、みな仏法を紹隆するに堪へたり。つねに仏前に生ぜん〉と。乃至 『涅槃経』によるに、〈仏ののたまはく、《もし人ただよく心を至して、つねに念仏三昧を修すれば、十方諸仏つねにこの人を見そなはすこと、現に前にましますがごとし》〉と。このゆゑに『涅槃経』にのたまはく、〈仏、迦葉菩薩に告げたまはく、《もし善男子・善女人ありて、つねによく心を至し、もつぱら念仏するひとは、もしは山林にもあれ、もしは聚落にもあれ、もしは昼もしは夜、もしは坐もしは臥に、諸仏世尊つねにこの人を見そなはすこと目の前に現ずるがごとし。つねにこの人のためにして受施(布施・供養を受けること)をなさん》〉と。乃至

ここには三つの文があり、第一の『大集経』の文は、法を説く者と法を聞く者の心得を語っています。第二と第三の『涅槃経』の文は、真の仏弟子は諸仏世尊につねに護られていること、すなわち「諸仏護念の益」について語っています。

第一の文は、法を説く者は、医者として患者の苦を取り去るのだと思い、説く教えを甘露や醍醐のようなものと思いなさいと言い、法を聞くものは病者として、この教えによりすばらしい智慧をえて病が癒えると思いなさいと語ります。このように法を説く者、聞く者を医者と病者になぞらえ、それぞれの心構えを述べているのですが、一方に医者がいて、他方に病者がいるというように捉えるべきではないでしょう。そうではなく、真の仏弟子は医者であり、同時に病者であると受けとめるべきです。真の仏弟子は医者として真実のことばを発信する人ですが、しかし同時に病者として真実のことばを受信する人であるということです。発信と受信は別々にあるのではなく、発信者は受信者であり、受信者は発信者です。


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わが善き親友なり [「信巻を読む(2)」その54]

(8)わが善き親友なり

その疑問に対してぼくが答えたのはこうでした、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」という「こえ」が自身のなかから聞こえてくるというのは、いわゆる「良心のこえ」ということでしょうが、自身のなかから出てきたこの「こえ」にはかならず「上げ底」がしてあります、と。つまり、一方で「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」と言いながら、他方で、そんなふうに自身を見ることができることを誇りに思っているということです。「オレにはそんなふうに言うだけの良心がある」と割引きをしているのです。もっとはっきり言えば、この「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」という自身の「こえ」には嘘が含まれているということです。

同じように、「大いなる力で生かされている」という気づきは自分のなかから生じるのではないかと言う人もいることでしょう。ふとそのように思うことがあるのは、自分でそのように気づいたということではないかと。その場合にもしかし先と同じ「上げ底」がしてあります(いや、この場合は「下げ底」と言うべきかもしれません)。つまり、一方で「大いなる力で生かされている」と言いながら、他方で、そんなふうに気づくことができる自分の力を自負しているということです。「大いなる力で生かされている」ことに自分の力で気づいたと言うとき、その「大いなる力」は割引かれています。そして、そのように言う人は、実際のところ「大いなる力で生かされている」という実感はないと言わなければなりません。

「大いなる力で生かされている」という気づきが正真正銘のものでしたら、それは「むこうから」やってくると言わざるをえません。あるとき気がついたらその思いのなかに包み込まれていたのです。そこから「法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばば、すなはちわが善き親友なり」という経文の真意を読み解くことができます。われらの「師」であるはずの釈迦が、「大いなる力」に気づいたものを「友」と呼ぶのは、釈迦もまた「むこうから」やってきたその気づきにとらえられたからであり、その点ではわれらと何も変わらないからです。畏れ多いことながら、釈迦とわれらは御同朋、御同行です。


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智慧あきらかに達し [「信巻を読む(2)」その53]

(7)智慧あきらかに達し

さらに真の仏弟子の功徳が経典から上げられます。

また、「法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばば、すなはちわが善き親友(しんぬ)なり」とのたまへり。

またのたまはく、「それ至心ありて安楽国に生ぜんと願ずれば、智慧あきらかに達し、功徳殊勝なることを得べし」と。

また、「広大勝解者」とのたまへり。

また、「かくのごときらの類、大威徳のひと、よく広大異門(浄土のこと)に生る」とのたまへり。

またのたまはく、「もし念仏するひとは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華(プンダリーカ。白蓮華のこと)なり」と。以上

全部で五文ありますが、第一と第二は『大経』、第三と第四は『如来会』、第五は『観経』から引かれています。真の仏弟子について「わが善き親友」と言われ、「智慧あきらか」と言われ、「広大勝解者」と言われ、「大威徳のひと」と言われ、「人中の分陀利華」と言われて讃えられます。不思議な「気づき」を得るということは、何か特別な智慧を得ることに他ならず、真の仏弟子とは智慧の人であると讃えられていると言えます。さてここであらためて考えておかなければならないのは、「大いなるいのちのなかで生かされている」という智慧は、われらのなかからは生まれないということです。これを「気づき」と言ってきましたのは、そのことを表そうとしてのことで、「気づき」は「こちらから」ではなく「むこうから」やってきます。

「わが力にて」という思いが如何に強固なものか。ついこの間のことですが、こんなことがありました。親鸞講座で機の深信の話になり、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」という気づきは自分では得られないと言いましたところ、それにこんな疑問が出されました。「自身は現にこれ云々」という「こえ」は自分のなかから聞こえてくると言えるのではないでしょうか、と。罪悪生死の凡夫という気づきは自分で得ることができるのではないかという疑問です。


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現生十益 [「信巻を読む(2)」その52]

(6)現生十益

さて「触光柔軟の願」では、弥陀の光明に照らされたとき「身心柔軟にして人天に超過せん」と言われ、「聞名得忍の願」では、弥陀の名号が聞こえたとき「菩薩の無生法忍、もろもろの深総持を得」と言われます。これは「大いなる力により生かされている」という「気づき」が生まれることで、わが身の上に何が起こるかを述べています。少し前のところで(「信の一念」釈)、真実の信心(「気づき」です)があれば「かならず現生に十種の益を獲」と言われ、「一つに冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり」と述べられていました。

真の仏弟子にはこの十の利益があると言うのですが、「触光柔軟」も「聞名得忍」もまさに現生の利益であり、この十益の中では二の「至徳具足の益」や七の「心多歓喜の益」に入るでしょう。「触光柔軟」とはこわばっていた身も心も光に触れてやわらぐということですが、これは囚われから抜け出たときの様子をよく表現しています。これまでは「わが力で生きなければならない」という思いに囚われ、身も心もガチガチにこわばっていたのですが、あるとき「大いなる力で生かされている」ことに気づき、その囚われから抜け出すことができますと、身も心も一気にやわらぎます。これは十益のなかの「至徳具足の益」と言うべきでしょう。

これが「触光柔軟」ですが、「聞名得忍」も別のことではありません。名号が聞こえることにより無生法忍を得るとは「わがいのち」への囚われから抜け出すことに他なりません。これまでは「これはわがいのちである」という思いに深く囚われていたのですが、「大いなるいのちのなかで生かされている」という気づきを得て、「わがいのち」への囚われから抜け出すことができたのです。そのとき目の前の風光がガラリと変わり、心には大きな慶びが起こりますから、これは「心多歓喜の益」と言うべきでしょう。


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