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前念に命終して後念にすなはちかの国に生ず [「信巻を読む(2)」その46]

(11)前念に命終して後念にすなはちかの国に生ず

次の『往生礼讃』にも注目すべきことばが出てきます、「前念に命終して後念にすなはちかの国に生ず」と。親鸞はこのことばにも着目し、『愚禿鈔』においてこう述べています、「本願を信受するは、前念命終なり。〈すなはち正定聚の数に入る〉(『論註』)と。即得往生は、後念即生なり。〈即の時必定に入る〉(『十住毘婆沙論』)と。また〈必定の菩薩と名づくるなり〉(同)と」。善導が「前念に命終して後念にすなはちかの国に生ず」と言うのは文字通りの意味で、いのちの終わる瞬間のことですが、親鸞はこれを「本願を信受」する瞬間、「信楽開発の時剋の極促」のこととしています。すなわちその時剋の極促を境として、古いいのちが終わり、新しいいのちが生まれるのだと理解しているのです。

善導の文は、表面的には往生はいのち終わった後であると説いていますが、親鸞はその裏に隠されている真実を引き出そうとしていると言えます。つまり、善導は往生と成仏を重ね合わせて捉えることにより、それは否応なくいのち終わった後のこととして説くことになるのですが、しかし往生ということばに込められているもっとも大事なメッセージは第十八願成就文に「その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。…かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」とあるなかに表明されています。すなわち名号が聞こえ信心歓喜する「そのとき」に往生するのであり、それは正定聚不退となることに他ならないということです。

それが「本願を信受するは、前念命終なり。…即得往生は、後念即生なり」ということで、本願信受のときに正定聚不退としての新しいいのちが誕生し、それは成仏するまでつづくということです。つまり、いのち終わるときに往生=成仏するのではなく、信心のときに往生がはじまり、それは成仏までつづくのです。往生というのは臨終という点の出来事ではなく、信心のときから成仏のときまでの線であるということです。その間、身は娑婆にありながら、「そのこころすでにつねに浄土に居す」のです。

(第4回 完)


タグ:親鸞を読む
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