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煩悩を断ぜずして涅槃を得る [「『正信偈』ふたたび」その27]

(7)煩悩を断ぜずして涅槃を得る

ところで親鸞は「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」と言いますが、『論註』では「煩悩を断ぜずして涅槃の分をう」とあり、「分」がついています。これをどう理解すればいいかということですが、おそらく親鸞は「七言」に収める必要上、あえて「分」の一言を除いたのであり、こころは曇鸞と同じと考えられます。すなわち信がひらけたとき、涅槃そのものが得られるのではなく、涅槃の分を得るということ、すなわち涅槃を得たにひとしいということです。親鸞はしばしば信心の人は「仏とひとし」と言いますが、それと同じく、信がひらけますと、ただちに「涅槃の人」となるのではなく、「涅槃の人とひとし」くなるのです。

いま述べていることは、第2回のところで「等覚を成り大涅槃を証することは 必至滅度の願成就なり(成等覚証大涅槃 必至滅度願成就)」という偈文がありましたが、それとまっすぐつながります。この偈文は第十一願のことを詠っていますが、第十一願はこうでした、「国のうちの人天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ」と。すなわち「ほとけの願い」に遇うことができれば、そのとき「定聚に住し」、そして「かならず滅度に至る」ということです。「偈」に「等覚を成り」とありますのは、「願」の「定聚に住し」と同じで、「偈」に「大涅槃を証す」とありますのは、「願」の「かならず滅度に至る」ということです。

これをいまの「よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり(能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃)」と重ね合わせますと、信を得れば(一念喜愛の心を発すれば)、「そのとき」煩悩をもったままで正定聚(かならず仏となるべき身)となり、そして「このさき」かならず滅度に至る(涅槃をえる)となります。これが「かの浄土に生ずる」ということであり、信心をえることはすなわち往生することに他なりません。そしてそれは即涅槃を得ることではないが、それにひとしいこと(涅槃分を得ること)であると言っているのです。「ほとけの願い」に遇うことができれば「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままですでに「ほとけのいのち」であることに目覚め、それはもう涅槃を得たようなものだということです。


タグ:親鸞を読む
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