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偈文1 [「『正信偈』ふたたび」その31]

第4回 よこさまに超える

(1)  偈文1

「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃 凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」のあと、さらに信を得たのちの風光が次のように詠われます。

摂取心光常照護 已能雖破無明闇

貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天

譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇

摂取の心光つねに照護したまふ。すでによく無明の闇を破すといへども、

貪愛瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天をおほへり。

たとへば日光の雲霧におほはるれども、雲霧のしたあきらかにして闇なきがごとし。

弥陀の目に見えない光は、常にわれらを照らし護っていてくださいます。その光に気づかせていただき、われらのこころの闇は晴れましたが、

だからと言って、貪りや愛欲、怒りや憎しみから解き放たれたわけではなく、いつも煩悩の雲や霧がかかり、真実の信心の空を覆っています。

しかし、それはちょうど日の光が雲や霧に覆われても、その下は明るく闇がないようなものです。

親鸞は『教行信証』「信巻」において、金剛の信心を得た人には「かならず現生に十種の益」があると述べ、その第六に「心光常護の益」を上げていますが、それがここで「摂取の心光つねに照護したまふ」と詠われています。

ときどき浄土真宗では現世利益は言わないとされることがありますが、とんでもありません。本願を信じ、念仏を申すことで、この世において大いなる利益があります。そのことを表すもっともよく知られたことばとしては、『歎異抄』第1章の頭にこうあります、「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」と。この「すなはち」は、「念仏申さんとおもひたつこころのおこる」〈そのとき〉という意味であり、紛れもなく現世利益です。

この「すなはち」を考える上でもっとも大事なことは、「念仏申さんとおもひたつこころのおこる」こと〈によって〉摂取不捨の利益を得るのではないということです。そうではなく、「念仏申さんとおもひたつこころのおこる」ときには、〈もうすでに〉摂取不捨の利益を得ているのです。もし念仏を申すこと〈によって〉この世で何かの利益を得ようとしますと、その念仏は自力念仏であるとして退けられ、その利益も悪しき現世利益として否定されます。


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ただ五逆と誹謗正法とをば除く [「『正信偈』ふたたび」その30]

(10)ただ五逆を誹謗正法とをば除く

さてこの問題に関連して、もうひとつ考えておかなければならないことがあります。第十八願に「唯除五逆誹謗正法」という一句があることです。

「正信偈」では「凡聖逆謗ひとしく回入すれば、衆水、海にいりて一味なるがごとし」と言われていますが、第十八願に「もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆を誹謗正法とをば除く」と言われているのです。第十八願は、いまさら言うまでもなく本願中の本願ですが、そこで「ただ五逆を誹謗正法とをば除く」と言われていること、これをどう理解すればいいのいかという問題です。これは浄土の教えに心を惹かれてきた人たちにとって非常に深刻な問題として古くから議論されてきました。曇鸞は『論註』で、善導は『観経疏』で、かなりのスペースを割いてこれについて論じています(『教行信証』「信巻」にその議論が紹介されています)。

これを考える際に手がかりになるのが、法然・親鸞の時代に起こった「本願ぼこり」あるいは「造悪無碍」とよばれる言動です。

凡聖逆謗ひとしく回入すれば、衆水、海にいりて一味なるがごとし」であるのだから、本願を信じさえすれば、どんなに悪を造っても往生に差し支えないとし、「身にもすまじきことををゆるし、口にもいふまじきことをもゆるし、こころにもあもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべしと申しあう」(『末燈鈔』第20通)人たちが出てきたのです。そして南都・北嶺や朝廷は、これを念仏弾圧の絶好の口実としてつかうようになります。承元の法難(1207年)をはじめとする幾多の弾圧事件の背景にこれがありました。

問題の核心は、本願念仏の教えは倫理を否定するのかどうかということにあります。親鸞は先の書簡でこう言います、「薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ」と。本願という妙薬があるからといって、好んで毒を飲むなどということはあってよいはずはないというのです。本願に遇うことができたとき、われらの心に生まれるのは慚愧の念であり、思い存分悪をなそうなどと思うはずがないということです。本願の「唯除五逆誹謗正法」も、これまでになしてきた悪を慚愧せよというメッセージに違いありません。

(第3回 完)


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わがこころのよくてころさぬにはあらず [「『正信偈』ふたたび」その29]

(9)わがこころのよくてころさぬにはあらず

こんなふうに「われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり」(『歎異抄』後序)というありさまですが、さてしかし本当に何が「よし」で、何が「あし」なのか。後序はそのあと「聖人の仰せには、『善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり』」とつづきますが、結局のところ、われらはそのときどきに「わたしのいのち」にとって利益になることを「よし」とし、不利益になることを「あし」としているだけではないでしょうか。スピノザという哲学者はこんなふうに言っています、「我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものを…欲望するのではなくて、反対に、あるものを…欲望するがゆえにそのものを善と判断する」(『エチカ』第三部)と。

「われもひとも」みなそのときどきに「わたしのいのち」にとって利益になることを善として欲望し、不利益になることを悪として嫌悪しているのであり、その点では何も変わらないと言わなければなりません。もちろん、だからと言って誰でも人妻とその娘をなぶり殺しにするわけではありません。そんなことをするのはごくごく一部の人でしょうが、しかしそんなことをしなくて済んでいるのもその縁がないからだけのことで、「わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」(『歎異抄』第13章)と言わなければなりません。

「善因善果・悪因悪果」であって、とんでもない悪人が善人と同じように救われてたまるかと思っている人は、自分を善人の仲間に入れています。だからこそ「あんなヤツが」となるのですが、見てきましたように「よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはららふゆゑなり」(同)であり、善も悪もみな縁のなせるわざであると言わなければなりません。そんな「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで、みなすでに「ほとけのいのち」です。ですから「わたしのいのち」としてはそれぞれに異なりますが、「ほとけのいのち」としては「衆水、海にいりて一味なるがごとし」です。


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海に入りて一味 [「『正信偈』ふたたび」その28]

(8)海に入りて一味

後の二句、「凡聖逆謗ひとしく回入すれば、衆水、海にいりて一味なるがごとし」のもとも『論註』の「海の性(しょう)の一味にして、衆流入れば、かならず一味となりて、海の味はひ、かれに随ひて改まらざるがごとし」という一文です。「凡聖逆謗」の「凡聖」は「凡夫と聖人」、「逆謗」は「五逆と謗法(ほうぼう)」で、「五逆」は「殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血(仏を傷つける)・破和合僧(僧団の和合を破壊する)」という五つの重罪、「誹法」は「仏法を誹謗する」ことです。あわせて聖人から大罪人までみな等しくということで、信を得れば、どんな人も分け隔てなく同じ救いにあずかることができるという意味になります。

親鸞はこのことを和讃でも次のように詠っています、「名号不思議の海水は 逆謗の屍骸もとどまらず 衆悪の万川帰しぬれば 功徳のうしほに一味なり」(『高僧和讃』曇鸞讃)と。この和讃では「逆謗」に焦点が当てられ、どんなに悪逆非道なものも、まったく隔てなく本願の海に入ることができるといわれます。「逆謗の屍骸もとどまらず」とは、逆謗の屍骸はどこかの岸に打ち上げられるということではなく(そのように解説してある本があったのですが、それでは排除されるということになります)、「功徳のうしほ」のなかに溶け込んで「一味」となるということです。さあしかし、どんな聖人も、どんな悪人も本願の海のなかでは何の違いもなく、まったく同じ救いにあずかることができるということには、何か感覚的に受け入れがたいものがないでしょうか。

われらが「凡聖逆謗みな一味」ということに違和感を覚えるとき、頭に浮んでいるのは、それぞれに「あんなヤツ」と思っている人物の顔でしょう。そして「あんなヤツと一味になるなんてたまらん」と思い、「あんなヤツと一緒に救われるのなら、そんな救いは願い下げにしたい」という思いが膨らんでいます。愛妻と愛娘をなぶり殺しにされた人が言った「犯人と同じ空気を吸いたくない」ということばが脳裏に焼き付いています。「善因善果、悪因悪果」ということばもありますが、このように善人も悪人も一緒くたにされることへの反感には根深いものがあります。


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煩悩を断ぜずして涅槃を得る [「『正信偈』ふたたび」その27]

(7)煩悩を断ぜずして涅槃を得る

ところで親鸞は「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」と言いますが、『論註』では「煩悩を断ぜずして涅槃の分をう」とあり、「分」がついています。これをどう理解すればいいかということですが、おそらく親鸞は「七言」に収める必要上、あえて「分」の一言を除いたのであり、こころは曇鸞と同じと考えられます。すなわち信がひらけたとき、涅槃そのものが得られるのではなく、涅槃の分を得るということ、すなわち涅槃を得たにひとしいということです。親鸞はしばしば信心の人は「仏とひとし」と言いますが、それと同じく、信がひらけますと、ただちに「涅槃の人」となるのではなく、「涅槃の人とひとし」くなるのです。

いま述べていることは、第2回のところで「等覚を成り大涅槃を証することは 必至滅度の願成就なり(成等覚証大涅槃 必至滅度願成就)」という偈文がありましたが、それとまっすぐつながります。この偈文は第十一願のことを詠っていますが、第十一願はこうでした、「国のうちの人天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ」と。すなわち「ほとけの願い」に遇うことができれば、そのとき「定聚に住し」、そして「かならず滅度に至る」ということです。「偈」に「等覚を成り」とありますのは、「願」の「定聚に住し」と同じで、「偈」に「大涅槃を証す」とありますのは、「願」の「かならず滅度に至る」ということです。

これをいまの「よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり(能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃)」と重ね合わせますと、信を得れば(一念喜愛の心を発すれば)、「そのとき」煩悩をもったままで正定聚(かならず仏となるべき身)となり、そして「このさき」かならず滅度に至る(涅槃をえる)となります。これが「かの浄土に生ずる」ということであり、信心をえることはすなわち往生することに他なりません。そしてそれは即涅槃を得ることではないが、それにひとしいこと(涅槃分を得ること)であると言っているのです。「ほとけの願い」に遇うことができれば「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままですでに「ほとけのいのち」であることに目覚め、それはもう涅槃を得たようなものだということです。


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偈文2 [「『正信偈』ふたたび」その26]

(6)偈文2

さて「五濁悪時の群生海、如来如実の言を信ずべし」につづいて、次の四句でその信が生まれたとき何が起こるかが述べられます。

能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃

凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味

よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。

凡聖逆謗(ぼんしょうぎゃくほう)ひとしく回入(えにゅう)すれば、衆水、海にいりて一味なるがごとし。

本願を聞かせていただき、喜びがこころに満ち溢れますと、煩悩にまみれたまま涅槃の境地にはいることができます。

凡夫も聖人も、五逆罪を犯したものや仏法を謗るものも、みな本願の海に入れば、さまざまな河の水が海に入ると同じ味になるように、何の違いもありません。

この四句はすべて曇鸞の『論註』がベースとなっています。はじめの二句のもとは「凡夫人の煩悩成就せるありて、またかの浄土に生ずることをうれば、三界の繋業(けごう)畢竟じて牽かず、すなはちこれ、煩悩を断ぜずして涅槃の分をう(不断煩悩得涅槃分)」という一文です。「喜愛心」は「信心」のことで、「喜愛心を発する」とは「ほとけの願い(本願)」に遇うということです。「ほとけのいのち」から「若不生者、不取正覚」と願われていることに気づいたときということですが、曇鸞の文ではそれが「かの浄土に生ずることをうれば」となっています。「ほとけの願い」に遇うことが、取りも直さず「かの浄土に生ずる」ことです。

さてそのとき、いったい何が起こるのかと言いますと、煩悩をもったままで涅槃をえると言います。これは大乗の奥義である「煩悩即涅槃」を言い替えたものです。「即」とは「そのままで」ということで、煩悩はそのままで涅槃であるということです。常識では、煩悩は煩悩でなくなってはじめて涅槃ですが、そうではなく、煩悩は煩悩であるままで涅槃であるというのです。龍樹ならこれを「不一不異」と言うでしょう、煩悩は涅槃と「一にあらず」だが、しかしまた「異にあらず」であると。煩悩は涅槃と同一ではありません。もし同一でしたら、われら煩悩具足の凡夫はすでに仏であるということになりますから。しかし煩悩は涅槃と別異でもありません。もうすでに「ほとけの願い」に遇い、「そのまま帰っておいで」という「こえ」が聞こえたのですから。それはもう涅槃をえたのにひとしいではありませんか。


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「ほとけの願い」のリレー [「『正信偈』ふたたび」その25]

(5)「ほとけの願い」のリレー

これまで繰り返し「わたしの願い」の奥底に「ほとけの願い」がひっそり息づいていると述べてきましたが、それは「わたしのいのち」はそのままで同時に「ほとけのいのち」であるからです。ところがそのことにまったく気づくことなく、ひたすら「わたしのいのち」を「わたしのちから」で生きなければと七転八倒してきたのですが、あるときふと「わたしのいのち」は「わたしのいのち」を生きるままで「ほとけのいのち」のなかで生かされていることに気づきます。はじめて「ほとけのいのち」に遇うことになるのです。この気づきはもちろん「わたし」に起こりますが、「わたし」が起こすことはできません、「ほとけのいのち」に気づかされるしかありません。

しかし見てきましたように、「わたしのいのち」は直接「ほとけのいのち」に遇うことはできず、それは他の「わたしのいのち」を介する他ありません。

ここに釈迦の出番があります。われらは釈迦という「わたしのいのち」を介して「ほとけのいのち」に遇うことができるのです。「ほとけの願い」は直接われらのもとに届けられるのではなく、釈迦を通して送り届けられるということです。ではどうして釈迦は「ほとけの願い」をわれらに届けることができるのかといいますと、もちろん釈迦自身が「ほとけのいのち」に遇うことができ、「ほとけの願い」を聞くことができたからです。しかし釈迦もまた直接「ほとけのいのち」に遇い、直に「ほとけの願い」を聞いたわけではないでしょう。もしそうだとしますと、釈迦はもはやわれらと同じような「わたしのいのち」ではない、何か特別な存在になってしまいます。

これはもうどこにも根拠がありませんが、釈迦もまただれか「わたしのいのち」を介して「ほとけのいのち」に遇うことができたのに違いなく、その誰かもまた同じでしょう。「ほとけの願い」はそのように無数の「わたしのいのち」を介して送り届けられていくとしか言うことができません。『歎異抄』第2章に「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。…」と述べられているのは、この「ほとけの願い」のリレーのことを言っているに違いありません。


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「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」 [「『正信偈』ふたたび」その24]

(4)「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」

さて次の二句、「五濁悪時の群生海、如来如実の言を信ずべし」ですが、この「如来如実の言」とは前の二句から明らかなように「弥陀の本願」のことです。われら群生海は釈迦から弥陀の本願を聞かせてもらうことで「ほとけの願い」に遇うことができ、それがわれらの救いになるということです。これまでは、どうして釈迦は釈迦自身の願いを説かずに、弥陀の本願を説くのかを見てきましたが、今度は、どうして弥陀自身が自分の本願を説かずに、釈迦が弥陀の本願を説くのかを考えなければなりません。

この問いは、「ほとけの願い」はわれら群生海に直接届けられるのではなく、釈迦を介して届けられるのはなぜかということに他なりません。

その答えは、「わたしのいのち」は直接「ほとけのいのち」に遇うことができないということです。「わたしのいのち」は「有量のいのち」であるのに対して、「ほとけのいのち」は「無量のいのち」ですから、両者は直に接することができません。「有量のいのち」が接することができるのは「有量のいのち」だけで、「無量のいのち」に接することはできないのです。もし「有量のいのち」が「無量のいのち」に接したとしますと、その「無量のいのち」はもはや「無量のいのち」ではなくなります。「無量」とは、その外部にいかなる「有量」もないということですから。

これは、こちらに「わたしのいのち」があり、あちらに「ほとけのいのち」があるのではなく、「わたしのいのち」はみな「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」のなかに包摂されているということを意味します。すぐ前のところで「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」は不一不異であると言いましたが、それは「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」のなかにあるということです。「わたしのいのち」とは別に、どこかに「ほとけのいのち」があるのではありません。「わたしのいのち」たちがひとつにつながりあっている、そのつながりそのものが「ほとけのいのち」です。ですから「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままですでに「ほとけのいのち」なのです。


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ただ弥陀の本願海をとかんとなり [「『正信偈』ふたたび」その23]

(3)ただ弥陀の本願海をとかんとなり

さて問題はどうして釈迦出世の本懐が阿弥陀仏の本願を説くことにあるのかということです。それを考えるために「わたしの願い」と「ほとけの願い」の関係について考えてきたのですが、もし「若不生者、不取正覚(もし生れざれば、正覚を取らじ)」という「ほとけの願い」が釈迦自身の「わたしの願い」とまったく同一であるとしますと、釈迦は阿弥陀仏のことを持ちだす必要はありません、「若不生者、不取正覚」が「わたしの願い」ですと語れば済むことです。われらはそれを聞かせてもらうことにより、「ほとけの願い」がわが身にはたらいていることに気づくことができれば、「わたしのいのち」のままですでに「ほとけのいのち」に生かされていることが感じられ救われます。

しかし釈迦は「若不生者、不取正覚」が「わたしの願い」ですとは語ることができません。なぜなら釈迦もまたわれらと同じく「わたしのいのち」だからです。釈迦はもちろん目覚めた人ということで仏とよばれますが(「仏陀」のもとの梵語は「buddha」で「目覚めた人、覚者」という意味です)、それ以外では普通の人と何ひとつ違わない一人の人間です。もし釈迦がわれらとは異なる何か超人的な存在でしたら、その教えはもう仏教とは呼べないものとなります。われらと何も変わらない人がある目覚めを得たからこそ、われらはその目覚めについて話を聞こうという気になるのであって、われらとはまったく異質の人でしたら、その目覚めもわれらとは無縁と言わなければなりません。

このように釈迦もまたわれらと同じように「わたしのいのち」であるとしますと、「ほとけのいのち」とまったく同一と言うわけにはいきません。先ほど「わたしの願い」と「ほとけの願い」は「不一不異」であると言いましたが、「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」もまた「不一不異」です。釈迦の「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」と別ではありませんが(不異です)、しかし同一でもありません(不一です)。としますと釈迦は「わたしの願い」が「ほとけの願い」だとは言うことができず、「ほとけの願い」を弥陀の本願として説くしかありません。かくして「如来、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海をとかんとなり」ということになります。


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「わたしの願い」と「ほとけの願い」 [「『正信偈』ふたたび」その22]

(2)「わたしの願い」と「ほとけの願い」

これまで見てきましたのは「はじめに『大いなる願い(本願)』ありき」ということでした。「大いなる願い」とは「生きとし生けるものみなが救われなければ、自分の救いもない」ということ、「若不生者、不取正覚(もし生れざれば、正覚を取らじ)」ということでした。そして、われらひとり一人の「わたしの願い」の奥底にこの「法蔵菩薩の願い(本願)」がひっそり息づいているということに目覚めることが救いであると述べてきました。「わたしの願い」は「わたしの願い」のままで「ほとけの願い」と別ではないと気づくこと、ここに救いがあると。

さてこれは「わたしの願い」と「ほとけの願い」はまったく同一であるということではありません。もしそうでしたら「わたし」はもう「ほとけ」であるということになりますが、「わたし」は「わたし」である限り、どこまでも煩悩具足の凡夫です。親鸞は凡夫について、「無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」と言っていますが(『一念多念文意』)、そのように「わたしの願い」には自分勝手な欲望が満ち満ちていると言わなければなりません。

かくして「わたしの願い」と「ほとけの願い」はあくまで「不一」ですが、しかし同時に両者が「不異」であることもまた確かです。それはこれまで縷々言ってきましたように、「わたしの願い」の奥底に「ほとけの願い」がひっそりと息づいているからです。われらはそのことにまったく気づくことなく、ただひたすらわがまま勝手な「わたしの願い」を実現しようと血道を上げてきたのですが、そしてそのなかで他の人の「わたしの願い」と相剋し、互いに傷つけあってきたのですが、あるとき、その「わたしの願い」の底の底に「ほとけの願い」があるのに気づくのです。そのとき「わたしの願い」と「ほとけの願い」は「不異」であることが明らかになります。

こうして「わたしの願い」と「ほとけの願い」は「不一不異」であると言わなければなりません。「わたしの願い」は「わたしの願い」のままで「ほとけの願い」であるといってきたのはそのことです。


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