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偈文1 [「『正信偈』ふたたび」その51]

第6回 自然に即の時必定に入る

(1)  偈文1

これまでは経典をもとに弥陀・釈迦の両尊を讃える「依経段」でしたが、これから七高僧の論釈をもとに浄土の教えを讃える「依釈段」がはじまります。まずはその序。

印度西天之論家 中夏日域之高僧

顕大聖興世正意 明如来本誓応機

印度西天の論家、中夏日域(ちゅうかじちいき)の高僧、

大聖興世の正意をあらはし、如来の本誓機に応ぜることをあかす。

インドの論家たち(龍樹と天親)、そして中国・日本の高僧たち(曇鸞・道綽・善導・源信・源空)は、

釈迦如来がこの世に現われてくださったほんとうの意味をあきらかにし、弥陀如来の本願はわれら愚かな凡夫のためにあることを示してくださいました。

法然が浄土の教えの祖師たちの血脈として『選択集』で名を上げていますのは、菩提流支(ぼだいるし)・曇鸞・道綽・善導・懐感・少康の六人です(菩提流支はインド人の訳経僧で、曇鸞に浄土の教えを伝えた人として知られています。懐感は善導に師事し『群疑論』を著した人物で、少康も善導亡き後その事績を受け継いだ人で後善導とよばれます)。対して親鸞は曇鸞からさらに遡り、インドの龍樹と天親にまで浄土の教えの源流を求めていることが目を引きます。法然も龍樹や天親の存在を意識していたのは当然ですが、偏依善導の立場の法然にとって、あくまでも善導が中心にあり、その系譜を遡って道綽と曇鸞が、下っては懐感と少康が上げられたのでしょう。

一方、親鸞にとっても善導の大きさは言うまでもありませんが、それと並んで曇鸞の存在がきわめて重要であったと言えます。いや、親鸞が曇鸞の『論註』から受けた影響の大きさは善導をしのぐものがあったのではないでしょうか。そしてその曇鸞はといいますと、天親の『浄土論』を読むことで、苦労して江南から持ち帰った道教の経典を焼き捨て、浄土の教えに帰したというエピソードの持ち主です。『浄土論』に遇うことで曇鸞の眼からうろこが落ち、それを注釈することに心血を注ぐことになったのですから、浄土の教えの祖師として天親の存在を落とすことはできません。それにまた曇鸞はもと四論宗の出で、『論註』を龍樹の『十住論』から説き起こすような人ですから、龍樹もまた浄土の教えの祖師として外すわけにはいきません。

かくして大乗仏教の二大論師、中観派の祖である龍樹と、唯識派の祖・天親が浄土教の高僧たちのはじめを飾ることになるのです。


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「あんじん」を与える「ちから」 [「『正信偈』ふたたび」その50]

(10)「あんじん」を与える「ちから」

「ちから」についてもう少し考えてみたいと思います。たとえば「万有引力」。これはもの同志が互いに引きあう力で、ぼくは地球に引かれていますから、地球から落っこちることなく生きています。そんなことはニュートンが言ってくれたおかげではじめて知ることができたのですが、それを知ってからはわが身にそのような力がはたらいているのだと感じることができます。さてこの力(はたらき)は「何か」の力でしょうか。たとえばぼくが誰かの手を引くとき、この力は「ぼく」の力と言えるでしょうが、万有引力にはそのような「何か」があるでしょうか。

地球がぼくを引いているのだから、それは地球の力ではないかと言われるかもしれませんが、地球自身にそのような力があるわけではありません。ぼくが誰かの手を引くように、地球がぼくを引いているのではありません。ではぼくを地球に引きつけている力とは何かといいますと、それは「何か」の力ではなく、ぼくと地球との間にはたらいている力と言うしかありません。しかもこの力はぼくと地球との間にだけはたらいているのではなく、ありとあらゆるもの同士にはたらいていますから(たとえば、ぼくには月との間の引力もありますから)、この力はますます「何か」の力とは言えなくなります。

さて「ほとけのいのち」です。

われらに「あんじん」を与えてくれる「ちから」を「ほとけのいのち」の「ちから」と言っているのですが、これまた万有引力と同じく「何か」の力であると考えることはできません。われらに「あんじん」を与える「ちから」をもつ「何か」があるわけではないということです。その「ちから」は「わたしのいのち」と他のあらゆる「わたしのいのち」たちとが互いにつながりあうなかにはたらいており、それがわれらに「あんじん」を与えてくれるということです。その「ちから」を便宜上「ほとけのいのち」の「ちから」と呼んでいるだけです。

親鸞の最晩年のことばとして「弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり」(『消息集』第14通、いわゆる自然法爾章)というものが伝えられていますが、これは、阿弥陀仏とはどこかにある「何か」ではなく、われらはみな不思議な「ちから」によって生かされているという自然のありようを言うために便宜上そのように呼ばれているだけであると言っているのではないでしょうか。

(第5回 完)


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難のなかの難、これに過ぎたるはなし [「『正信偈』ふたたび」その49]

(9)難のなかの難、これに過ぎたるはなし

これまで、如来の弘誓願に遇うとき、「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」のなかに摂取されると言ってきましたが、またそこに戻ることになります。

如来の弘誓願に遇うまでは、「わたしのいのち」はただ「わたしのいのち」でしかなく、それを「わがはからい」で生きなければと思ってきました。これが「自力のこころ」です。ところがあるとき如来がわれらを招喚する「こえ」が聞こえてきて、そのときはじめて「ほとけのいのち」に遇うことになります。そしてこれが「ほとけのいのち」に摂取されるということ、「ほとけのいのち」に生かされるということです。このとき「他力のこころ」を賜ったと言えます。「ああ、もう何ごとも自分で始末をつけなければならないという思いに縛られなくていいのだ、“ほとけのいのち”にお任せすればいいのだ」と思えるようになるのです。

このように見てきますと、「他力のこころ」は如来がわれらを招喚してくださる「こえ」が聞こえることにより与えられるのですから、それは「ほとけのいのち」から賜るということになります。

さて問題は、このように「ほとけのいのち」から「他力のこころ」を賜るというように言いますと、どうしても「ほとけのいのち」なるものがどこかにあるようにイメージしてしまい、そんなものがどこにと思い惑うことにあります。信楽受持することが「難のなかの難」である最深の根拠がここにあると言えます。また「体と用(ゆう)」ということばを持ちだしますと、「体」とは、いま言いました「どこかにあるもの(実体)」で、「用」は「あるはたらき」あるいは「ちから」です。で、いま問題となっているのは、「ほとけのいのち」とは、「体」ではなくて「用」であるということです。「ある不思議なはたらき」が身の上に感じられるとき、それを「ほとけのいのち」と呼んでいるのだということで、その「はたらき」といいますのが、われらに「あんじん」を与える「ちから」のことです。


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明日は明日みづから思い煩はん [「『正信偈』ふたたび」その48]

(8)明日は明日みづから思い煩はん

さて「自力のこころ」は、それをどこまでおし進めても「他力のこころ」に出ることはできません。「自力のこころ」が「これから」の時間をどれほど先まで切り拓いても、いつの日か「もうすでに」の時間のなかに入るわけではなく、どこまでいっても「これから」の時間があるだけだということです。つねに「これから」の時間をどう切り拓いていくかを考えなければならず、いわば「これから」の時間に脅かされています。ときに「もうすでに」の時間をふり返ることもあるでしょうが、それはあくまでも「これから」の時間を先に進めるためであり、「もうすでに」の時間のなかに落ち着くことではありません。「もうすでに」の時間に腰を下ろしてしまいますと、それはもはや「自力のこころ」とはいえなくなっています。

一方、「他力のこころ」はどうかと言いますと、これはつねに「自力のこころ」と共にあります。「他力のこころ」は「もうすでに」の時間のなかで「あんじん」を得ていますが、だからと言ってその「あんじん」の上に寝入ってしまうことはなく、「これから」の時間をどう生きるかを考えています。しかし、もはや「これから」の時間に脅かされ、不安に駆られることはありません。「もうすでに」の時間のなかで「あんじん」を得ていますから、「これから」の時間に何が起ころうと、「そのときはそのとき」という思いをもって軽やかに生きることができます。頭に浮ぶのはルターが言ったとされる「たとえ明日世界が滅びようと、ぼくは今日りんごの木を植える」ということばです。あるいはイエスの「明日のことを思い煩うな、明日は明日みづから思い煩はん。一日の苦労は一日にて足れり」ということばです。

さて問題はこの「他力のこころ」は、それを得ようとして得られるものではないということです。先ほど言いましたように、「自力のこころ」から「他力のこころ」へ出る道は閉ざされています。そもそも「他力のこころ」を「自力のこころ」で得ることほど妙ちきりんなことはなく、「他力のこころ」は「他力のこころ」から与えられるしかありません。これはしかしどういうことか、その意味することを理解するのは「難のなかの難、これに過ぎたるはなし」と言わざるをえません。


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「自力のこころ」と「他力のこころ」 [「『正信偈』ふたたび」その47]

(7)「自力のこころ」と「他力のこころ」

この「えっ」というわだかまりは、「わたし」が蔑ろにされているという感覚です。「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで(そこには聖者もいれば極悪人もいるというように千差万別ですが)、みな「ほとけのいのち」のなかで平等に生かされていると言われますと、「わたし」のはたらきはどうなるのかという苛立ちがはじけるのです。「わたし」はできるだけ善き生を送ろうと一生懸命につとめているつもりだが、「もうすでに」あらゆる「わたしのいのち」が「ほとけのいのち」のなかで一様に救われているとすれば、「わたし」の頑張りは何なのかという不満、これが「衆水海に入りて一味なるがごとし」という教えの受持を難しくさせるのです。

「邪見驕慢の悪衆生」ということばは、この「わたし」にこだわる姿勢すなわち「自力のこころ」を言っているのに違いありません。

自力に囚われる邪見、自力を恃む驕慢、これが本願他力の教えを阻んでいるのですが、その関係を時間の観点から見ておきますと、「自力のこころ」は「これから」にその本質があるのに対して、「他力のこころ」は「もうすでに」にその本質があります。まず「自力のこころ」ですが、高村光太郎の「道程」という詩は、その精神をみごとにうたい上げています、「僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる」と。時間というものは「わたし」が切り拓いていくものであり、その本質は「これから」にあるということをよく示しています。もちろん「もうすでに」切り拓いた時間をかえりみることもありますが、それはあくまで「これから」さらに時間を切り拓いていくためであり、それ以上ではありません。どこまでも「これから」を見つめつづけていくのみです。

それに対して「他力のこころ」においては、「もうすでに」の豊かな時間が「わたし」を包み込んでいます。気がついたら「わたし」は「もうすでに」の時間に包摂されていて、そのなかで「あんじん」を得ているのです。もちろん「わたし」はその中で何もしないわけではありません、「これから」を生きていかなければなりませんが、しかし「もうすでに」の時間の「あんじん」のなかにあるのですから、「これから」に囚われることはありません。


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偈文2 [「『正信偈』ふたたび」その46]

(6)偈文2

如来の弘誓願を聞信したひとは「広大勝解のひと」であり「分陀利華」であると讃えられたあと、こう詠われます。依経段の最後です。

弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生

信楽受持甚以難 難中之難無過斯

弥陀仏の本願念仏は、邪見驕慢悪衆生、

信楽受持すること、はなはだもつて難し。難のなかの難、これに過ぎたるはなし。

弥陀仏の本願と念仏は、よこしまな考え方を持ち、おごりたかぶった悪人であるわれらには、

これを信じ保つことははなはだ難しいのです。これ以上に難しいことはありません。

この偈文のもとは『大経』最末尾の「もしこの経を聞きて信楽受持することは、難のなかの難、これに過ぎたる難はなけん」です。弥陀仏の本願念仏の教えは、まことにもって難信であるということですが、これは「正信偈」のこれまでをちょっとふり返ってみるだけで、まったくその通りと頷かざるをえないのではないでしょうか。しばしば聖道門は難しく、対する浄土門は易しいと言われますが、なんの、浄土門の教えほど難しいものはないと言わなければなりません。

たとえば「凡聖・逆謗斉しく回入すれば、衆水海に入りて一味なるがごとし」とありましたが(第3回)、これひとつだけでも如何に難信かと言わざるをえません。これはどんな聖者もどんな極悪人も弥陀仏の本願念仏の海に入りさえすれば、まったく同じように救われるということですが、『歎異抄』第3章ではさらに過激に「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と言われます。悪人でさえ救われるのではありません、悪人こそ救われると言われるのですが、こんな真っ向から常識に反する教えをどのように信楽受持できるのかとなるのが普通です。

弥陀仏の本願の「こえ」が聞こえるとき、それだけでもう「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」のなかに摂取されているということは、どんな極悪人もまったく同じように救われているということに他なりませんが、さてそれを心から信じることができるでしょうか。自分が「ほとけのいのち」に生かされていると信じることはできても、どんな極悪人もまた同じように「ほとけのいのち」に生かされていると言われると、「えっ」と思ってしまうことはないでしょうか。


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淤泥華(おでいけ) [「『正信偈』ふたたび」その45]

(5)淤泥華(おでいけ)

最後に「この人を分陀利華と名づく」と言われます。如来の弘誓願を聞信した人は白蓮華に譬えられるのです。

これまた先の「広大勝解のひと」の場合と同じく、「欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほ」き凡夫が、如来の弘誓願を聞信することで、突然、清らかな白蓮華に変身するということではありません。むしろ逆です。本願に遇うことで、はじめて自分は「欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほく」と言えるようになるのです。それまでは、内心そんなふうに思っても、それを大っぴらに認めることはできず、人前で言うことなど到底考えられなかったのですが、それが偽らざるほんとうの自分であると認めることができるようになります。

それまでは、いやな自分(何かにつけて腹を立て、人を見てはそねみ、ねたむ自分)に出あうたびに、こんなのはほんとうの自分ではない、何かの間違いでたまたま顔を出しただけで、ほんとうの自分はこんなふうではないとひたすら叩きにかかっていました。実際のところそんな自分しかいないのですが、それを認めることができないのです。それを認めてしまうと、自分の存在がまるごと否定されてしまうように感じられるのです。ところが本願に遇うことができますと、そんな自分のままで「ほとけのいのち」のなかに包み込まれ、そうしてはじめて、「あゝ、この自分がほんとうの自分であり、これ以外にほんとうの自分なんていない」と認めることができるようになります。

その人がプンダリーカです。

曇鸞は『論註』でこう語ります、「淤泥華(おでいけ、蓮華のこと)とは、『経』(維摩経)にのたまはく、〈高原の陸地(ろくじ)には蓮華を生ぜず。卑湿(ひしゅう)の淤泥にいまし蓮華を生ず〉と。これは凡夫、煩悩の泥のなかにありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに喩ふ」と。もうこれにつけ加えるべきものは何ひとつありません。煩悩の淤泥のなかに菩提の蓮華が咲くのです。煩悩の淤泥を煩悩の淤泥と認めることの他のどこかに菩提の蓮華が咲くことはありません。煩悩の気づきと菩提の気づきはひとつです。


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広大勝解のひと [「『正信偈』ふたたび」その44]

(4)広大勝解のひと

さて第三句に、如来の弘誓願を聞信したひとは「仏、広大勝解のひととのたまへり」と言われます。

「広大勝解のひと」というのは「広大にして勝れた智慧をもつひと」ということですが、すぐ前のところで、善人であれ悪人であれ、みな愚かな凡夫人である(「一切善悪の凡夫人」)と言われたばかりなのに、その凡夫人が如来の弘誓願を聞信すれば「広大勝解のひと」と言われるのです。本願を聞信することで愚かな凡夫が急に勝解の人になるのでしょうか。そんなマジックが起こるはずはなく、凡夫は死ぬまで凡夫です。では何が起こるのかといいますと、本願を聞信するとき、仏智という勝れた智慧に遇うことができるのです。勝れた智慧とは本願そのものに他なりませんが、本願という勝れた智慧がわが身にはたらきかけていることを感じる、これが仏智に遇うということであり、そのときわれらは仏智に包み込まれているのです。

如来の弘誓願に遇うとき「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」のなかで生かされていることに目覚めますが、それは凡夫が凡夫のままで仏智のなかに包み込まれるということです。

凡夫は死ぬまで凡夫であることをやめることができないことを親鸞は『一念多念文意』において次のように容赦なく、これでもかと突きつけてきます、「凡夫といふは無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」と。しかし本願に遇うことができますと、そのようなどうしようもない凡夫であるままで仏智に包まれて生きることができるのです。いや、こう言うべきでしょう、自身は「欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほく」と言うことができるのは、仏の勝れた智慧に包まれているからです。自身の「愚かさ」の気づきと仏の「勝れた智慧」の気づきはひとつです。


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如来の弘誓願を聞信すれば [「『正信偈』ふたたび」その43]

(3)如来の弘誓願を聞信すれば

これが「一切善悪の凡夫人」ということばに含意されていることで、われは善人、かれは悪人などと振り分けることは「まことあることなき」で、われもかれもみな愚かな凡夫(ただびと)です。大急ぎで言わなければなりませんが、だからといって善悪の判断をすることに意味がないということにはなりません。たとえ善悪の判断が「みなもつてそらごとたはごと」であろうとも、われらはそれぞれのおかれた場で、持てる力の範囲でできる限り善き判断をしなければなりません。いや、そんなことを言われるより前に、そうしているのです、たとえそれが結果的に「そらごとたはごと」であろうとも。

さて「一切善悪の凡夫人」につづいて、第二句、「如来の弘誓願を聞信すれば」ときますが、これは『歎異抄』「後序」のことばでは、「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに」につづいて、「ただ念仏のみぞまことにておはします」とあるのにぴったり重なります。これは善だ、あれは悪だと言いあっているのは「みなもつてそらごとたはごと」と言わなければならないが、如来の弘誓願だけは「まことにておはします」ということです。この第二句で注目したいのは、「如来の弘誓願」を「聞信する」と言われていることです。

この「聞信」という言い回しはここにしか出てきませんが、親鸞はさまざまなところで聞とはすなわち信であると述べています。たとえば『教行信証』「信巻」では「『経』(大経)に、聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」と言い、また『一念多念文意』には「聞其名号といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり」とあります。どちらも第十八願成就文の「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん」を注釈し、本願の名号を聞くというのは、それを信ずることに他ならないと述べているのです。

「若不生者、不取正覚(もし生れざれば、正覚を取らじ)」という本願の「こえ」が聞こえて、しかる後にそれを信じるのではありません、その「こえ」が聞こえること自体が、そのままで本願を信じることです。そしてそれだけが「まこと」です。


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みなもつてそらごとたはごと [「『正信偈』ふたたび」その42]

(2)みなもつてそらごとたはごと

一切善悪の凡夫人」という一句から頭に浮ぶのはもう一つ、『歎異抄』「後序」に出てくる次のくだりです。「まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり」という唯円の述懐があり、それにつづいて親鸞のことばが紹介されます。「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善さをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」と。

誰も彼も、これは善で、あれは悪と言いあっているが、わたし親鸞は「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり」と言い放ちます。その後につづくことばから分かりますように、善悪についてまったく知らないということではないでしょう。人間、日々を生きていく上で、「これは善し、これは悪し」という判断をしないでは、一歩も前に進めません。親鸞が言うのは、そのように善悪の判断をしながら生きているが、それが「如来の御こころに善しとおぼしめすほどに」善いことであり、「如来の悪しとおぼしめすほどに」悪いことであるとは到底言えないということです。その時その時を生きていく上でそうせざるをえないから、その時々で「これは善し、これは悪し」と判断しているだけだということです。

としますと、善悪の判断は人によって異なりますし、そして『憲法十七条』にありますように、「われかならず聖なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず」ですから、結局何が善で何が悪か「総じてもつて存知せざるなり」と言わざるを得ません。それはわが生きてきた軌跡をふり返って、しばしば「あのときこうすればよかった」と後悔することからも、また国の歴史をふり返り、「何という愚かなことを」と反省することからも明らかです。われらはそれぞれがおかれた状況のなかで、その都度、よかれと思うことを選んでいるだけであり、その意味で「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」と言わざるを得ません。


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