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空の思想 [「『正信偈』ふたたび」その55]

(5)空の思想

ともあれ「無自性空」とはどういうことで、それが「有無の見を摧破せん」と言われるのはどういうことかを見ておかなければなりません。

まず「無自性」とは、どんなものも無数のものやこととのつながりにおいてあり、そのつながりから離れてそれだけとして存在することはないということで、それはまた「空」ということばで表現されます。AというものはBCD、…とのつながりにおいて存在し、そうしたつながりとは関係なくAそれ自体として存在することはないということです。AがあってBCD、…とのつながりがあるのではなく、BCD、…とのつながりがあってはじめてAがあるというのです。BCD、…とのつながりがAをつくっていると言ってもいい。それはもちろんBにも言えて、BACD、…とのつながりにおいて存在し、そのつながりから切り離されてBそのものとして存在することはありません。以下同様で、何ものも無数のものやこととのつながりから離れてそれ自体として存在することはないということです。

としますと、この世に真の意味で存在すると言えるのは縦横無尽のつながり(糸)であり、そうした無尽のつながりのそのときどきの結節点としてABCやがあるにすぎないということになります。こうして「有無の見を摧破せん」と言われることが理解できます。有見と言いますのは、自性としての有を認める立場、すなわちABCD、…とのつながりとは関係なくそれ自体として存在するという立場ですから、これは否定されます。しかし、だからと言ってすべて空無であるという無見もまた退けられます。Aはそれ自体としては存在しませんが、BCD、…とのつながりにおいて存在しており決して無ではありません。あらゆるものは無数のつながりのそのときどきの結び目として存在しているのです。

これが龍樹の「無自性空」の考えですが、さて問題はこれが「本願力により安楽に生ずる」という考えとどのように結びつくのかということです。


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