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疑情をもつて所止とす [「『正信偈』ふたたび」その114]

(7)疑情をもつて所止とす

ここまで「すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもつて能入とす」ということを見てきましたが、翻って「生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす」ということを考えておかなければなりません。信心とは本願が名号の「こえ」となってわれらのこころに届くこと、われらがそれを感受することですが、としますと疑情とは本願名号が届かないこと、われらがそれを感受できないということになります。これはどういうことでしょう。本願名号を感受する力のある人と、その力のない人がいるということでしょうか。

「あの人は感受性の豊かな人だ」という言い方があります。それは何かを感受する心のはたらきが優れているということですが、さて本願名号もまたわれらの感受性のあるなしによってそれが届くか届かないかが決まるのでしょうか。もしそのように本願名号の信があるかないかがわれらの感受性の豊かさによるとしますと、それは「自力の信」と言わなればなりません、われらの感受力により信を得るということですから。しかし本願の信は「他力の信」であり、如来よりたまわる信であることにそのもっとも大事な本質があります。としますと、ある人は信をたまわり、ある人はたまわることがないというのはどういうことでしょう。本願名号はあらゆる衆生に分け隔てなく届けられているはずなのに、届く人と届かない人がいるのはどんな事情があるのでしょう。

考えられるのはただ一つ、われらの側に本願名号をブロックする仕組みがあるということです。それがはたらくことで、やってきた本願名号が遮断されるのですが、どういうわけかそれをすり抜けてわれらの心に届くことがあり、そのときわれらに信心がおこるのです。どんなときにブロックが外れてすり抜けるのかはまったく分かりません。どういうわけか、あるときブロックが外れ、そのときはじめて外れたことに気づくのです。これは縁の不思議としか言いようがありません。親鸞が「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(総序)と言うのは、そのことです。


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