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信心をもつて能入とす [「『正信偈』ふたたび」その112]

(5)信心をもつて能入とす

源空讃、後半の4句です。

還来生死輪転家 決以疑情為所止

速入寂静無為楽 必以信心為能入

生死輪転(生死輪廻を繰り返すこと)の家に還来(かえ)ることは、決するに疑情をもつて所止とす。

すみやかに寂静無為(しずかな悟りの境地)の楽(みやこ)に入ることは、かならず信心をもつて能入とすといへり。

法然上人はこう言われます、いつまでも生死の迷いのなかをうろうろしているのは、結局のところ疑いのこころがあるからです。

すみやかに涅槃寂静の世界にはいるには、信心こそが肝心なのです、と。

この偈文のもとは『選択本願念仏集』の第八「三心章」の「まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城(みやこ)には信をもつて能入となす」という文です。これを親鸞が解説してくれている文がありますので読んでおきましょう。「〈以疑為所止(疑をもつて所止となす)〉といふは、大願業力の不思議を疑ふこころをもつて、六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天)・四生(胎生・卵生・湿生・化生)…にとどまるとなり。…〈以信為能入(信をもつて能入となす)〉といふは、真実信心をえたる人の、如来の本願の実報土によく入るとしるべしとのたまへるみことなり。信心は菩提のたねなり、無上涅槃をさとるたねなりとしるべしとなり」(『尊号真像銘文』)。「正信偈」の曇鸞讃には「正定の因は、ただ信心なり(正定之因唯信心)」とありましたが、それと同じ趣旨です。

『選択本願念仏集』の巻頭には「南無阿弥陀仏 往生の業は念仏を本とす」とありますことから浄土宗は「念仏為本」であるとされ、それに対して浄土真宗は「信心為本」と言われて、両者の違いを際立たせることがあります。ところが『選択集』において「信をもつて能入となす」と言われていますように、「念仏為本」と「信心為本」は決して相いれないものではないことが分かります。念仏(行)と信心(信)は別ものではなく、ひとつであること、これは法然としても親鸞としても基本です。親鸞が関東の覚信房に宛てて書いた手紙にこうあります、「信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて(法然上人から聞きて)候ふ。また、信をはなれたる行なしとおぼしめすべし」と。


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仏の本願によるがゆゑなり [「『正信偈』ふたたび」その111]

(4)仏の本願によるがゆゑなり

三選の文の最後に「名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり」とありますが、この「仏の本願によるがゆゑなり」という結句の元となっているのが先にあげました善導『観経疏』の「かの仏の願に順ずるがゆえなり」です。すなわち「二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行をなげすてて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし」と言えるのは、それがわれらの選択ではなく仏の願い(選択)であるからだということです。

さてしかし、「われらの選択か、あるいは仏の願い(選択)であるか」とはどういうことでしょう。その問いには、「自力で選びとったか、他力に選びとられたか」の違いであると答えることができますが、これにはさらに「他力に選びとられたとはどういうことか」という問いが立ち上がってきます。名号を自力で選びとるということには何の説明も不要ですが、名号は他力に選びとられたという言い回しはストンと肚に落ちてくれません。そこで繰り返しを厭わず、名号すなわち南無阿弥陀仏とは何かという原点にいま一度たちかえりましょう。

本願と訳されたもとのサンスクリットは「プールヴァ・プラニダーナ」で、「前の(本の)願い」という意味です。これは直接的には「阿弥陀仏が因位の法蔵菩薩であったときに立てられた願い」ということですが、そこから意味を飛躍させて「この世界に本からある願い」、「どんな過去よりもっと過去からある願い」と考えてみたい。その願いといいますのが「いのち、みな生きらるべし」です。「あらゆるいのちが分け隔てなく幸せに生きてあれかし」という願いです。この世界には無始よりこのかたこの願いがかけられているということです。そしてこの願いがあらゆる衆生に届けられるために名号すなわち南無阿弥陀仏があるのです。名号はわれらが選びとって称えるものではありません、仏の願いが名号を選びとり、それがわれらに送られてくるのです。名号はわれらが選びとるのではなく、仏によって選びとられたというのは、このことです。


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選択本願悪世にひろむ [「『正信偈』ふたたび」その110]

(3)選択本願悪世にひろむ

第3句で「真宗の教証を片州に興す」と言われたことが、第4句では「選択本願悪世にひろむ」とことばを替えて言われます。法然浄土教の特徴をあらわす語を一つ上げよと言われたら、迷うことなく「選択」を上げたいと思います(浄土宗では「せんちゃく」と読み、浄土真宗では「せんじゃく」と読みます)。第十八願を「選択本願」と命名したのは法然ですし、その著『選択本願念仏集』のなかには「選択」ということばが頻出します。そして法然自身がこのことばについて「『選択』とはすなはちこれ取捨の義なり」と解説しています(第3、本願章)。「あれも、これも」ではなく、「あれか、これか」を明確にするという姿勢です。

それがいちばん分かりやすい形で示されているのが『選択本願念仏集』の結論とも言うべき「三選の文」(略選択とよばれます)です。

「それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣(さしお)きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行をなげすてて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり」。まず聖道門を捨て、浄土門を選ぶ(一選)、次に往生の行として雑行(正行以外のすべて)を捨て、正行(読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養)を選ぶ(二選)、そして最後に助業(正行のなかの称名以外)を捨て、正定業(称名一つ)を選ぶ(三選)というのです。かくして最終的に称名一つを選ぶことで「かならず生ずることを得」と言われます。

さてこの選択において、いちばん大事なことは、選択するのは誰かということです。三選の文を読みますと、われらが選択の主体として、決然として「あれを捨て、これを選べ」と述べていますが、しかしわれらが選択の最終的な主体であるとしますと、選択の根拠はわれらにしかなく、どんづまりのところで「ほんとうに称名一つで往生することができるのか」という疑問につきまとわれることになります。法然が比叡山西塔黒谷で最後の決断を下せずに躊躇っていたのは、この疑問の壁を突破できなかったからに違いありません。


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善悪の凡夫人を憐愍(れんみん)せしむ [「『正信偈』ふたたび」その109]

(2)善悪の凡夫人を憐愍(れんみん)せしむ

第2句「善悪の凡夫人を憐愍せしむ」とは、その文字上では「法然聖人は善人も悪人も分け隔てなく哀れんでくださる」ということですが、道綽・善導の流れを汲む法然(そして親鸞)の真意から言えば、人はみなおしなべて悪凡夫であり、弥陀の本願は悪凡夫のためにあるということです。親鸞のことばとして伝えられている「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(『歎異抄』第3章)は、実は法然にそのもとがあり、親鸞は「法然聖人からこんなふうにお聞きしました」と語っていたのが、いつしか親鸞自身のことばとして流布したようです。醍醐本『法然上人伝記』に収められている法話のなかにこのことばが法然のことばとして出てきます。

このことばを「悪人〈でも〉往生できる」という意味だととんでもない誤解をされる人がときどきいますが、そうではなく「悪人〈こそ〉往生できる」という意味です。「悪人でも往生できる」ということばは、みずからを善人と自認している人から発せられますが、「悪人こそ往生できる」は、みずからを、そして人はみなおしなべて悪人だと気づいている人のことばです。みずからを善人と自認している人とは「自力作善」の人であるのに対して、みずからを、そして人はみな悪人と気づいている人は「自力無功」を思い知っている人です。そして「自力作善」の人は本願他力から遠く、「自力無功」を思い知った人は本願他力のすぐそばにいます。かくして「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」ということになるのです。

さて第3句「真宗の教証を片州に興す」ですが、ここで「真宗」とありますのは、宗派の名としての「浄土真宗」でないのはもちろんで、浄土の「真実の宗(教え)」ということです。親鸞が真宗ということばをつかうときは例外なくこの意味であり、彼にはみずから新しい宗派としての浄土真宗を開こうなどという意思は毛頭ありませんでした。親鸞の生涯は、ただ法然のひらいた浄土の真宗を真っ当に受け継ぎ、それを多くの人たちに弘めていくという思い一つで貫かれています。


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真宗の教証を片州に興す [「『正信偈』ふたたび」その108]

第12回 かならず信心をもつて能入とす

(1)  真宗の教証を片州に興す

いよいよ七高僧の最後、源空讃です。まずは前半の4句。

本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人

真宗教証興片州 選択本願弘悪世

本師源空は仏教にあきらかにして、善悪の凡夫人を憐愍せしむ。

真宗の教証を片州(かけらのような国ということで、日本)に興す。選択本願悪世にひろむ。

わが師、源空(法然)上人は仏教を究め明らかにして、われら善悪の凡夫を導いてくださいました。

浄土の真実の教えをわが日本に興して、弥陀選択の本願をこの悪世にひろめてくださいました。

第1句「本師源空は仏教にあきらかにして」とは、法然はその著書『選択本願念仏集』により仏教とは何であるかを明らかにしてくださったということです。すなわちこの書は「選択本願念仏の教えこそが仏教である」と主張し、これまでは寓宗にすぎなかった浄土宗の独立を宣言した記念碑的な書物と言わなければなりません。もちろん法然より前に源信の『往生要集』は念仏の教えを体系的に説き明かし、それが後世に絶大な影響を与えたことは言うまでもありませんが、しかし源信は「仏教のなかの念仏」を確固たるものとしたのであって、決して「念仏が仏教である」と主張したわけではありません。その証拠に源信は最後まで比叡山・横川の源信僧都として生きたのであり、山を降りて天台宗から離れることはありませんでした。

一方、法然は43歳のとき、黒谷の書庫のなかで出会った善導の『観経疏』「散善義」の一節、「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近(くごん)を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆえなり」が胸の奥に突き刺さってくるという経験をして、それを機に決然と山を降りて専修念仏の道を歩みはじめたのでした(このときをもって浄土宗の立教開宗の年とされます)。法然はこのように「念仏が仏教である」ことを自己一身の生き方をもって示したと言えます。親鸞は和讃でこう讃えています、「本師源空世にいでて 弘願の一乗ひろめつつ 日本一州ことごとく 浄土の機縁あらはれぬ」(『高僧和讃』源空讃)と。


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本願と信心はひとつ [「『正信偈』ふたたび」その107]

(9)本願と信心はひとつ

さて摂取の光明とは、弥陀の本願がわれらに届けられるかたちであることを思い起こしたい。「いのち、みな生きらるべし」という「本の願い」は、ただ「願い」としてあるだけではわれらを救う力になることができません。その「願い」がわれら一切の衆生に届けられなければなりませんが、そのとき「ひかり」(光明)というかたちと「こえ」(名号)というかたちとなってわれらのもとにやってくるのです。「正信偈」に「光明と名号因縁を顕す(光明名号顕因縁)」と言われているのは、本願が「ひかり」と「こえ」となってわれらに届くことにより往生の因縁となるという意味です。としますとここで摂取の光明と言われているのは弥陀の本願のことに他ならず、光明に摂取されるということは、本願に摂取されるということです。

本願を信ずるとは、本願に摂取され本願に生かされていると感じることですが、そのとき「摂取する本願」と「摂取されている自分」とはひとつになっています。

弥陀の本願と言われますと、われらはともするとそれを「どこかにあるもの」と考えてしまいます。どこか(西方十万億土)に阿弥陀仏がおわして、そこに本願の国があるというように。そのときわれらは本願を「見て」います。そして何かを「見る」とき、その何かは「体」すなわち実体です。しかし本願は「見る」ものではありません、わが身に「感じる」ものです。そして何かをわが身に「感じる」とき、その何かは「用(ゆう)」すなわちはたらきです。たとえば寒さを「感じる」とき、寒さは「体」としてどこかにあるのではありません、「用」として「いまここ」ではたらいています。同じように本願とは「体」としてどこかにあるのではありません、「用」として、「いまここ」で摂取するはたらきをしているのです。

本願は「いまここ」でわれらを摂取するはたらきをしていると感じること、これが信心であり、そのとき本願と信心はひとつです。あるいはこうも言えます、本願は信心となってわれらを救うと。

(第11回 完)


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「見る」と「感じる」 [「『正信偈』ふたたび」その106]

(8)「見る」と「感じる」

ここで「見る」ことと「感じる」ことを対比しておきましょう。まず何かを「見る」ときのことを考えてみますと、「見る主体」と「見られる客体」がはっきり分離されています。こちらに「見る自分」がいて、あちらに「見られる何か」があるというように両者は切り離されていますから、「見る自分」はさまざまなものを見ることができるものの、ただ「見る自分」だけはどうあっても見ることがかないません。鏡に映して見ればいいじゃないか、と言われるかもしれませんが、それはもう「見る自分」ではありません、「見られた自分」です。

一方、何かを「感じる」ときはどうかと言いますと、「感じる主体」と「感じられる客体」は分離されていません。たとえば寒さを感じるとき、「寒さを感じる自分」と「感じられる寒さ」とを切り離すことができません。「寒さを感じる自分」と切り離されて、どこか別のところに「感じられる寒さ」があるとしますと、そのときにはもう寒さを感じていないということに他なりません。これは「寒さを感じる自分」と「感じられる寒さ」とは一体であるということを意味します。

「見る」ことにおいては主客が分離しているのに対して、「感じる」ことにおいては主客が一体であることが確認できました。ここから言えることは、「見る」ことにおいては主客が分離していますから、そのことに対する「疑い」が起こることが避けられないのに対して、「感じる」ことにおいては主客が一体になっていますから、そこには「疑い」の起こる余地がないということです。何かを「見る」とき、本当にそれを見ているのかどうかについて、主客の隙間に「疑い」が忍び込む可能性がいつもありますが、何かを「感じる」ときは、主客の間に隙間がありませんから、そのことはもはや天地がひっくり返っても確かです。

摂取の光明に戻りますと、これを「見る」ことはできず、ただ「感じる」だけであるということは、「光明に摂取されていると感じる自分」と「摂取している光明」は分離していないということです。そこでは自分と光明はひとつになっていますから、もう摂取されていることに対して「疑い」の起こる余地がありません、誰が何を言おうが、確かなことです。


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つねにわれを照らしたまふ [「『正信偈』ふたたび」その105]

(7)つねにわれを照らしたまふ

さて、次の「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼をさへて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなく、つねにわれを照らしたまふといへり」という偈文ですが、源信と言えばこの文句が真っ先に浮ぶほど有名なことばです。親鸞は「正信偈」以外のさまざまなところでもこの名文を取り上げています。和讃にはこうあります、「煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり」(『高僧和讃』源信讃)と。この文は真実の信心のありようを見事に描き出していると言えます。

この偈文で見ておきたいことの第一は、その前に「極重の悪人はただ仏を称すべし」という句があり、そして「大悲、倦きことなく、つねにわれを照らしたまふ」と言われているという順序です。ここでも「われらはみな極重の悪人である」という「機の深信」がまず出てきて、次いで「大悲はその悪人をつねに照らしてくださる」という「法の深信」が出てくるのです。そのように説くことにより、ものうきことなくわれらを照らしてくださる大悲のありがたさが身に染みることになります。

次にこの偈文の構造ですが、最初に「わたしは弥陀の光明に摂取されている」ことが端的に事実として出されます。次いで「しかしその光明を見ることはできない」ことが言われ、最後に「にもかかわらず、わたしはその光明につねに摂取されている」と締めくくられています。このように、二重の逆説により、最初の結論に戻っていくという形になっているのですが、そうすることで、弥陀の光明は見ることはできないけれども、間違いなくわたしを摂取していることが強調されていると言うことができます。

さてしかし、光明を見ることができないというのに、どうして間違いなく摂取されていると言うことができるのでしょう。答えはただ一つ、「見る」ことはできないが、「感じる」ことができるからです。弥陀の光明は、普通の光とは異なって、それを見ることができず、ただ感じることができるだけということです。


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機の深信と法の深信 [「『正信偈』ふたたび」その104]

(6)機の深信と法の深信

機の深信と法の深信はコインの表と裏のような関係ですから、どちらが先でどちらが後ということはありませんが、しかし実際にわれらの身に起こるときには、まず機の深信、そして法の深信という順序になります。善導もその順で説いていますが、ここにはどのような心の動きが潜んでいるのでしょうか。これを考えるためには、あらためて「信心とは何か」というすべての原点に立ち返らなければなりません。いま深信が「身に起こる」と言いましたが、ここに信心の核心があると言えます。すなわち信心はわれら「に」起こりますが、われら「が」起こすことはできないということです。

普通にわれらが何かを「信じる」と言うときは、われらがその信を起こしています。われらが何かに対して信を与えています。ところが浄土の教えにおいて本願を「信じる」というときは、同じ「信じる」ということばをつかいながら、まったく違う事態を指しています。すなわちわれらが本願の信を起こしているのではなく、本願がわれらに信を起こしているのです。あるいは、われらが本願に信を与えているのではなく、われらは本願から信を与えられているのです。本願の信は、われらが与えるものではなく、われらは本願の信を与えられるということです。これが賜りたる信心ということです。

機の深信と法の深信に戻りますと、どちらも如来の智慧をわれらが賜るのですから、どちらが先でもいいようなものですが、賜るわれらから言いますと、まず機の深信、次いで法の深信という順序でなければ心にストンを落ちてくれません。まず「汝のような罪悪深重の凡夫は出離の縁がない」と宣告され、そのことばの真実性の前に否応なくうな垂れているとき(これが機の深信です)、「そのような汝をわが本願は必ず救う」と告げられますと、そのことばは干天の慈雨のようにわれらの心に沁みこみます(これが法の深信です)。それが、いきなり「汝をわが本願は必ず救う」と告げられても、「いったい何だろう」と戸惑いを与えるだけに終わらないでしょうか。そのあとで「汝のような罪悪深重の凡夫は救われる道理がない」と言われますと、これまた素直に受けとめられないのではないかと思えます。

われらはみなおしなべて極重悪人であるという自覚が、本願他力による救いの入り口にあるということです。


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極重(ごくじゅう)の悪人はただ仏を称すべし [「『正信偈』ふたたび」その103]

(5)極重(ごくじゅう)の悪人はただ仏を称すべし

源信讃の後半4句です。

極重悪人唯称仏

我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我

極重(ごくじゅう)の悪人はただ仏を称すべし。

われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼をさへて見たてまつらずといへども、大悲、倦(ものう)きことなく、つねにわれを照らしたまふといへり。

源信和尚はこう言われます、「極重の悪人であるわれらは、ただ弥陀の名号を称えさせていただくしかありません。

わたしもまた弥陀の光明に摂取されているにもかかわらず、煩悩が目を覆ってその光明を見ることができませんが、それでも弥陀の大悲は絶えることなくいつもわたしを照らし続けてくださるのです」と。

第1句「極重の悪人はただ仏を称すべし」ということばは、『往生要集』の「第八、念仏証拠」に出てくることばがもとになっています。そこでは、往生のためになぜ念仏の一門を勧めるのかという問いが出され、それに対する答えのひとつとして、『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と説かれていることが指摘されているのです。さてこの極重悪人ですが、文字の表面上の意味では、善人に対する極悪人を指すのでしょうが、その下に隠されている意味としては、己を極悪人と思わざるをえない人のことで、それは源信その人であり、そしてまた人はみなそうであると言わなければなりません。

われらはみなおしなべて極悪人であるとするところに浄土の教えのもっとも深いものがあります。

それをはっきり言ってくれたのが、これまで折にふれて参照してきました善導の「二種深信」です。真実の信心には二つの面があり、一つは「自身は現にこれ罪悪深重の凡夫、曠劫(こうごう)よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなし」と信ずることで、もう一つは「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受(しょうじゅ)して、疑なく慮(おもんぱか)りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得」と信ずることです。普通に信心といいますと、後者の「法の深信」をさしますが、それが真実のものであるならば、その裏側に必ず前者の「機の深信」があることを指摘してくれたのです。たとえ「かの願力に乗じて、さだめて往生を得」と信じていても、もし「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」という信がないとしますと、そんなものはちょっと風が吹けばすぐ吹き飛んでしまう夢のようなものにすぎません。


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