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ほんとうの自分 [「『証巻』を読む」その66]

(3)ほんとうの自分

ただ、「ほんとうの自分」としての法蔵菩薩という考え方には危険な落とし穴があります。それは「ほんとうの自分」としての法蔵菩薩がいつかどこかに存在していたかのように思い込むということです。

プラトンはこの世界とは別に真実の世界としての「イデア界」が存在すると言いますが(そしてわれらはこの世界に生まれる前にはそこにいたと言いますが)、それと同じように、「現実の自分」とは別に「ほんとうの自分」がどこかに存在していたと考えますと、プラトンと同じ二世界説(背後世界説)に陥ってしまいます。そうではなく、「ほんとうの自分」とは「現実の自分」のありようを映しだすための鏡として「現実の自分」と張り合わせに存在すると考えるべきではないでしょうか。「現実の自分」のありのままの姿は、「現実の自分」をどれほど見つめても明らかになるわけではなく、「ほんとうの自分」という鏡に映されてはじめて見ることができるということです。

「ほんとう」ということばを辞書で見ますと「偽りではなく、真実であること、見せかけではなく、本物であること、まこと」とあります。ものごとは「見かけ」と「本物」が乖離していることがありますが、「ほんとう」とは「見かけ」ではなく「本物」のことと理解できます。さてしかし、「見かけ」が「本物」を脚色するときに、実際より「よく」見せかけている場合と、実際より「悪く」見せかけている場合とがあります。「ほんとうの自分」と言うときも、「見かけ」は「よい人」のようだが、「本物」は「とんでもない悪人」であるという意味のときと、「見かけ」は「とんでもない悪人」のようだが、「本物」は「よい人」であるという意味のときがあります。

法蔵菩薩はわれらの「ほんとうの自分」であると言うときは後者の意味です。すなわち、われらはひたすらわが身勝手な願いを実現しようとしているように見えますが、実はそうした願いの奥底に「若不生者、不取正覚」という「ほんとう」の願いを秘めているということです。しかし「ほんとうの自分」は前者の意味でもあります。すなわち、われらはみんなの幸せを願っているような顔をしていても、「ほんとう」はわが身のことしか考えていないということです。このどちらも「うそ偽りのないほんとうの自分」であるという点にことの本質があります。


タグ:親鸞を読む
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