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「障菩提心」と「順菩提心」 [「『証巻』を読む」その96]

(3)「障菩提心」と「順菩提心」

「菩提を障ふる心(障菩提心)」と「菩提に順ずる心(順菩提心)」のコントラストが鮮やかに浮び上がります。あるいは「わたしに囚われた心」と「わたしへの囚われのない心」のコントラスト。さらに言えば、「自他相剋の心」と「自他一如の心」のコントラスト。さてここで注意しなければならないのは、われら凡夫には「障菩提心」が、還相の菩薩には「順菩提心」というようにはっきり分かれているのではないということです。菩薩が「障菩提心」を遠離するということは、菩薩にも「わたしに囚われた心」、「自他相剋の心」があるということに他なりません。「障菩提心」があるからこそそれを遠離すると言われるのであり、そうでなければ「障菩提門」など説く必要はなく、ただ「順菩提門」だけ説けばすむことです。

あらためて菩薩とは「菩提薩埵(bodhisattva)」すなわち「菩提を求める衆生」であることに思いを致す必要があります。還相の菩薩といえどもあくまで衆生であり、衆生にはどこまでも煩悩がつきまといます。「正信偈」に「摂取の心光、つねにわれを照護したまふ。すでによく無明の闇を破すといへども、貪愛・瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天を覆へり」とあるごとくです。「摂取の心光」と「貪愛・瞋憎の雲霧」とは相矛盾しますが、それが矛盾したまま共存していると言われています。そのように「障菩提心」と「順菩提心」とは相矛盾しながら、還相の菩薩のなかに共存しているのです。さてしかし、矛盾するということは共存できないということではないか、矛盾しながら共存するとはどういうことか。何となく分かったような気になることで満足することなく、考えつづけたいと思います。

もう一度「嘘つきのパラドクス」に戻ります(第9回の5参照)。「わたしは嘘つきです」という言明が真実であるとしますと、そう言っている人のなかに「嘘つきのわたし」と「正直なわたし」が共存していなければなりません。もし「嘘つきのわたし」しかいないとしますと、「わたしは嘘つきです」という言明も嘘ということですから、この言明はナンセンスと言う他ありません。彼のなかに「正直なわたし」がいて、「嘘つきのわたし」に「おまえは嘘つきだ」と囁き、「嘘つきのわたし」がそれに頷かざるをえないとして、はじめてこの言明に真実性が生まれます。


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第10回、本文2 [「『証巻』を読む」その95]

(2)第10回、本文2

次が順菩提門ですが、先の障菩提門と密接不可分ですので、一気に読みます。

順菩提門とは、〈菩薩はかくのごとき三種の菩提門相違の法を遠離して、三種の随順菩提門の法、満足することを得たまへるがゆゑに。なんらか三種。一つには無染(むぜん)清浄(しょうじょう)(しん)。自身のためにもろもろの楽を求めざるをもつてのゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。菩提はこれ無染清浄の処なり。もし身のために楽を求めば、すなはち菩提に違しなん。このゆゑに無染清浄心は、これ菩提門に順ずるなり。

〈二つには安清浄(あんしょうじょう)(しん)。一切衆生の苦を抜くをもつてのゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。菩提はこれ一切衆生安穏(あんのん)する清浄の処なり。もし作心(さしん)して一切衆生を抜きて生死の苦を離れしめずは、すなはち菩提に違しなん。このゆゑに一切衆生の苦を抜くは、これ菩提門に順ずるなりと。

〈三つには(らく)清浄(しょうじょう)(しん)。一切衆生をして大菩提を得しむるをもつてのゆゑに、衆生を摂取してかの国土に生ぜしむるをもつてのゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。菩提はこれ畢竟常楽の処なり。もし一切衆生をして畢竟常楽を得しめずは、すなはち菩提に違しなん。この畢竟常楽はなにによりてか得る、大乗門によるなり。大乗門とは、いはくかの安楽仏国土これなり。このゆゑにまた〈衆生を摂取してかの国土に生ぜしむるをもつてのゆゑに〉とのたまへり。〈これを三種の随順菩提門の法、満足せりと名づくと、知るべし〉(浄土論)と。

障菩提門の「我心貪着自身(がしんとんじゃくじしん)」・「無安衆生心(むあんしゅじょうしん)」・「供養恭敬自身心(くようくぎょうじしんしん)」のそれぞれの遠離に、順菩提門の「無染清浄心(自身のために楽を求めざる心)」・「安清浄心(衆生の苦を抜き安穏ならしめる心)」・「楽清浄心(衆生に菩提の常楽を得しめる心)」が対応しています。表にして整理しましょう。

〈障菩提門〉                    〈順菩提門〉

  「我心貪着自身(自身に貪着する心)」の遠離       ―― 「無染清浄心」

「無安衆生心(衆生を安んずることなき心)」の遠離  ―― 「安清浄心」

「供養恭敬自身心(自身を供養し恭敬する心)」の遠離―― 「楽清浄心」


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第10回、本文1 [「『証巻』を読む」その94]

第10回 智慧と方便

(1)  第10回、本文1

善巧摂化の次は障菩提門(菩提を障碍する心を遠離する)の章です。

障菩提門とは、〈菩薩かくのごとくよく回向成就したまへるを知れば(通常は「回向を知りて成就すれば」となるのを、主語を法蔵菩薩として読んでいる)、すなはちよく三種の菩提門相違の法を遠離(おんり)するなり。なんらか三種。一つには智慧門によりて、自楽を求めず、わが心自身に(とん)(じゃく)(貪りもとめる)するを遠離するがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。進むを知りて退くを守る(進んで衆生済度することを知り、自利主義に退かないよう身を守る)を〈智〉といふ。空無我を知るを〈慧〉といふ。智によるがゆゑに自楽を求めず、慧によるがゆゑにわが心自身に貪着するを遠離せり。

〈二つには慈悲門によれり。一切衆生の苦を抜いて、無安(むあん)衆生(しゅじょう)(しん)(衆生を安んずることなき心)を遠離せがゆゑに(浄土論)とのたまへり。苦を抜くを〈慈〉といふ。楽を与ふるを〈悲〉といふ。慈によるがゆゑに一切衆生の苦を抜く。悲によるがゆゑに無安衆生心を遠離せり。

〈三つには方便門によれり。一切衆生を憐愍(れんみん)したまふ心なり(通常は「憐愍する心なり」)。自身を供養し恭敬(くぎょう)する心を遠離るがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。正直(かたよりがなく平等なこと)を〈方〉といふ。おのれを(ほか)にするを〈便〉といふ。正直によるがゆゑに一切衆生を憐愍する心を生ず。おのれを外にするによるがゆゑに自身を供養し恭敬する心を遠離せり。〈これを三種の菩提門相違の法を遠離すと名づく〉(浄土論)と。

還相の菩薩は智慧と慈悲と方便をもち、智慧門によって「我心貪着自身(自身に貪着する心)」を遠離し、慈悲門によって「無安衆生心(衆生を安んずることなき心)」を遠離し、方便門によって「供養恭敬自身心(自身を供養し恭敬する心)」を遠離すると説いています。


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畢竟(ひっきょう)成仏の道路 [「『証巻』を読む」その93]

(10)畢竟(ひっきょう)成仏の道路

この文で目を引きますは、「かの仏国」は「畢竟成仏の道路」であり、「無上の方便」であるとされていることです。

ここでまた「畢竟」ということばが登場してきました。ここまでの『論註』の文のなかに何度かこの「畢竟」が出てきて、大事な役割をしてきました。まず「かの仏を見たてまつれば、未証浄心の菩薩(初地から七地までの菩薩)、畢竟じて平等法身を得証す」という『浄土論』のことばについて丁寧な注釈がありましたし(第5回の4)、また「(願生の菩薩は)みな大乗正定の聚に入りて、畢竟じてまさに清浄法身を得べし」と述べられていました(第8回の4)。「畢竟」とは「いまはまだそうではないが、いづれかならずそうなる」ということで、ここで「畢竟成仏」と言われていますのは、「いまはまだ成仏していないが、いづれかならず仏になる」という意味です。

さて、この文で言われていますのは、法蔵菩薩が「作願して一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜしむ」るのは、「畢竟成仏」のための「無上の方便」であるということです。すなわち、法蔵が一切の衆生を浄土に往生させようと願うのは、ついにはかならず成仏させたいと思うから、ということです。ここで思い起こしたいのは第十一願です。「たとひわれ仏を得たらんに、国のうちの人天、定聚(じょうじゅ、正定聚)に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ」の「かならず滅度に至る(必至滅度)」が「畢竟成仏」ということです。そして「かならず滅度に至る」ことが「正定聚に住す」ることに他なりません。正定聚とは「かならず仏となるべき身」のことですから。

問題は「かの安楽仏国に生ずる」ことと「畢竟成仏」の関係です。しばしば往生と成仏は同じであるとされますが(往生即成仏)、その前提に往生は来生であるという通念があります。成仏が「畢竟」あるいは「必至」であるように、往生もまた「畢竟」であり「必至」であるとされるのです。これまで親鸞はそう考えていないことを繰り返し述べてきましたが、曇鸞もまたここで「かの安楽仏国に生ずる」ことは、「畢竟成仏」のための「無上の方便」であり、信心を得たそのときに「かの安楽仏国に生じ」、「畢竟成仏の道路」を歩むのであると明言しています。

(第9回 完)


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第9回、本文3 [「『証巻』を読む」その92]

(9)第9回、本文3

菩薩の巧方便回向(ぎょうほうべんえこう)についての注釈がつづきます。

おほよそ〈回向〉の名義(みょうぎ)を釈せば、いはく、おのれが所集の一切の功徳をもつて、一切衆生に施与(せよ)して、ともに仏道に向かへしめたまふなりと(例によって、ここも普通に読めば「ともに仏道に向かふなり」となります)。〈巧方便〉とは、いはく、菩薩願ずらく、おのれが智慧の火をもつて一切衆生の煩悩の草木を焼かんと、もし一衆生として成仏せざることあらば、われ仏にならじと。しかるに衆生いまだことごとく成仏せざるに、菩薩すでにみづから成仏せんは、たとへば(かてん)(木の火ばし)して、一切の草木を()んで焼きて尽さしめんと欲するに、草木いまだ尽きざるに、火掭すでに尽きんがごとし。その身を後にして身を先にするをもつてのゆゑに、巧方便と名づく。このなかに〈方便〉といふは、いはく作願して一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜしむ。かの仏国はすなはちこれ畢竟(ひっきょう)成仏の道路、無上の方便なり。

この文でおもしろいのは「火掭の譬え」です。木の火ばしで草木を擿んで焼こうとしているうちに火ばしの方が先に焼けてしまうように、菩薩も一切衆生を成仏させないうちは仏になるまいと誓って衆生済度のはたらきをしているうちに先に成仏してしまうというのです。これは法蔵菩薩が「若不生者、不取正覚(もし生れざれば、正覚を取らじ)」と誓願したにもかかわらず、不可思議の兆載永劫の修行をするうちに先に成仏して阿弥陀仏となったことを指しますが(この辺りは還相の菩薩と法蔵菩薩がひとつになっています)、このことは法蔵が誓いに反したということではなく、ここにこそ菩薩の巧方便があると曇鸞は言います。「その身を後にし」ようとしながら、しかし実は「身を先にする」ことに巧みな方便があるのだというのですが、さてこれはどういうことでしょう。

その答えが「作願して一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜしむ。かの仏国はすなはちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり」という一文にあります。


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願作仏心はすなはち度衆生心 [「『証巻』を読む」その91]

(8)願作仏心はすなわち度衆生心

願作仏心はすなわち度衆生心であるということ、これはすでに往相と還相の関係として述べたこととそっくり同じです(第4回の2)。そこではこんな言い方をしました、往相は還相をまってはじめて完結する、と。往相は往相として完結し、その後に還相がはじまるのではありません(その場合は、往相は今生、還相は来生になります)。往相はそのままですでに還相ですから、そのようなものとしてはじまり、そのようなものとして完結するということです。しかしどうして往相はすなわち還相であり、願作仏心はすなわち度衆生心であると言えるのでしょう、これをあらためて確認しておきたいと思います。

そこで「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であることを想い起こしましょう(これに気づくことが信心です)。すなわち「わたしのいのち」は他のすべての「わたしのいのち」たちと縦横無尽につながりあっており、そのつながりが「ほとけのいのち」です(網の一つの結び目をもち上げますと、他の結び目がみんなズラズラと持ち上がってきます、4参照)。このことを親鸞は「一切の有情はみなもつて世々生々の父母兄弟なり」と言っています(『歎異抄』第5章)。としますと、願作仏心すなわち自分が救われたいと思う心が、ただそれだけで完結するはずはありません。自分のいのちは、他のすべてのいのちと否応なくつながっているのですから。自分が救われようとすれば、他のすべての衆生が救われなければなりません。かくして願作仏心はすなわち度衆生心でなければならないのです。

そのことを何よりもよく言い表しているのが最十八願です。「若不生者、不取正覚(もし生れざれば、正覚を取らじ)」(これを曇鸞はこのすぐ後の文で「もし一衆生として成仏せざることあらば、われ仏にならじ」とかみ砕いてくれています)。これは法蔵菩薩の誓願ですが、見てきましたように、法蔵菩薩と還相の菩薩はもう限りなく近いと言わなければならず、法蔵菩薩にとっても還相の菩薩にとっても願作仏心はすなわち度衆生心に他なりません。


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願作仏心(がんさぶっしん)と度衆生心(どしゅじょうしん) [「『証巻』を読む」その90]

(7)願作仏心(がんさぶっしん)と度衆生心(どしゅじょうしん)

天親のことばに還相の菩薩の本質がはっきりと浮き彫りにされています、「自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲すがゆゑに」と。われらが往生を願うのは「自身住持の楽」のためではなく、還相の菩薩として「一切衆生の苦を抜かんと欲すがゆゑ」であるということです。それを注釈して、曇鸞はまず願生の行者はみな「無上菩提心」をおこすとし、そして「この無上菩提心は、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心は、すなはちこれ度衆生心なり」と述べます。親鸞はこの一節を大事にし、たとえば『高僧和讃』ではこう詠っています、「願作仏心(がんさぶっしん)の心はこれ 度衆生(どしゅじょう)のこころなり 度衆生の心はこれ 利他真実の信心なり」と(親鸞はこれを天親讃のなかで詠っていますが、願作仏心も度衆生心も曇鸞のことばです。親鸞のなかで天親と曇鸞は一体となっています)。

さてここで考えておきたいのは願作仏心と度衆生心の関係です。しばしばこう言われます、小乗仏教では願作仏心だけで度衆生心がないが、大乗仏教では度衆生心が大事にされると。この言い方では、願作仏心だけでは不十分で、それに度衆生心が加わってはじめてほんとうの菩提心となるということになります。「菩提心=願作仏心+度衆生心」という等式です。しかし曇鸞が言うのはそういうことでしょうか。「無上菩提心は、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心は、すなはちこれ度衆生心なり」というのは、「菩提心=願作仏心=度衆生心」ということです。

違いは明らかでしょう。前者は、まず願作仏心をもつことが大事だが、しかしそれだけで満足することなく、さらに度衆生心をもってはじめて完成するということであるのに対して、後者は、願作仏心は取りも直さず度衆生心であり、度衆生心でないような願作仏心はほんとうの願作仏心ではないということです。この違いは、願作仏心と度衆生心の間の時間的な関係にもつながってきます。すなわち前者では、まず願作仏心が起こり、それが成就された後に度衆生心が起こることになりますが、後者では願作仏心の起こる時が、取りも直さず度衆生心が起こる時です。


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第9回、本文2 [「『証巻』を読む」その89]

(6)第9回、本文2

善巧摂化(ぜんぎょうせっけ)の章がつづきます。

〈なにものか菩薩の(ぎょう)方便(ほうべん)回向(えこう)。菩薩の巧方便回向とは、いはく、礼拝等の五種の修行(五念門)を説く、所集の一切の功徳善根は、自身住持の楽を求めず(自分のために楽を求めるのではなく)、一切衆生の苦を抜かんと欲(おぼ)すがゆゑに、作願して一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜしむ。これを菩薩の巧方便回向成就と名づく〉(浄土論)とのたまへり。王舎城所説の『無量寿経』を案ずるに、三輩生(上輩・中輩・下輩の三種類の行者)のなかに、行に優劣(うれつ)ありといへども、みな無上菩提の心(この上ない仏の覚りを求める心)を発せざるはなけん。この無上菩提心は、すなはちこれ願作仏心(仏になろうとする心)なり。願作仏心は、すなはちこれ度衆生心(衆生を済度しようと思う心)なり。度衆生心は、すなはちこれ衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑに、かの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発(ほっ)するなり。もし人無上菩提心を発せずして、ただかの国土の(じゅ)(らく)無間(むけん)(楽を受くることひまなし)なるを聞きて、楽のためのゆゑに生ぜんと願ずるは、またまさに往生を得ざるべきなり。このゆゑに、〈自身(じしん)住持(じゅうじ)の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲すがゆゑに〉とのたまへり。〈住持楽〉とは、いはく、かの安楽浄土は、阿弥陀如来の本願力のために住持せられて、楽を受くること間(ひま)なきなり。

ここでもまた親鸞独自の読みがありますので、まずそれを確認しておきましょう。『浄土論』のことばとして「作願して一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜしむ」と出てきますが、これは「一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜんと作願する」と読むのが普通です(原文は「作願摂取一切衆生共同生彼安楽仏国」)。親鸞の意図は明らかでしょう。普通の読みでは主語が「われら」ですが、親鸞はそれを「法蔵菩薩」へと転換しているのです。親鸞においては作願の主体としての「われら」は背景に退き、「法蔵菩薩」が前面に出てくるのです。


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真実と虚妄 [「『証巻』を読む」その88]

(5)真実と虚妄

さて本文の「巧方便回向(ぎょうほうべんえこう)」ですが、こう言われます、菩薩は「実相を知るをもつてのゆゑに、すなはち三界の衆生の虚妄の相を知るなり。衆生の虚妄の相を知れば、すなはち真実の慈悲を生ずるなり」と。前にも言ったと思いますが、菩薩とは「菩提薩埵(ぼだいさった)」を略したもので「bodhisattva」の音訳です。「bodhi」とは「菩提」すなわち「ほとけの覚り」で、「sattva」は「衆生」ですから、菩薩は「ほとけ」と「衆生」を媒介するものということです。すなわち菩薩は「わたしのいのち」であるがままで「ほとけのいのち」であることに目覚めており、「わたしのいのち」としては「虚妄」の中にありますが、同時に「ほとけのいのち」としては「実相」の中にあるわけです。

注目したいのは「実相を知るをもつてのゆゑに、すなはち三界の衆生の虚妄の相を知る」と言われていることです。真実を知るがゆえに虚妄を知るということを考えるために、ここでまた「嘘つきのパラドクス」を持ち出しましょう。「ぼくは嘘つきです」という言明にはどうしようもない撞着があります。この言明が正しいとしますと、この言明自体が嘘であることになり、その人は嘘つきではなくなってしまいます。しかし、だからと言ってこの言明をナンセンスと一蹴するわけにはいきません。そう言っている本人はここに真実があると思っているでしょうから。一体どう考えればいいのでしょう。

この人は自分が嘘の世界にいると感じていますが、それがかりそめのものではないとしますと、それと同時に自分は真実の世界にいるとも感じているはずです。前回でも言ったことですが(第8回の3)、ここは闇の世界だと感じる人は、光の世界も同時に感じています。生まれてこの方ずっと闇の世界に暮らしてきた深海魚は、ここは闇の世界だと感じることはありません。光の世界でないのはもちろんですが、闇の世界でもない、ただのノッペラボーです。そのように、自分は嘘の世界にいると感じるとき、その人は真実の世界にいるとも感じています。真実の世界を感じるからこそ、嘘の世界にいることを感じることができるのです。

「ぼくは嘘つきです」という言明に真実があるとすれば、そう言っているのが嘘つきの自分ではなく、真実の自分だからです。


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「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」 [「『証巻』を読む」その87]

(4)「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」

菩薩とは「われら」かそれとも「法蔵」かということを考えてきましたが、結局のところ、「われら」であるとともに同時に「法蔵」であるということになり、「法蔵」とは阿弥陀仏の因位の姿ですから、五念門の行をなすのは「われら」でありながら同時に「ほとけ」であるということです。これまで節々で「わたしのいのち」は「わたしのいのち」であるままで「ほとけのいのち」であると言ってきましたが(それに気づくことが信心であると言ってきましたが)、それで言いますと、「わたしの行」はそのままで「ほとけの行」であるということです。

ここであらためて「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」の関係について考えておきましょう。

「わたしのいのち」とは「有量のいのち」であり、「ほとけのいのち」とは「無量のいのち(アミターユス)」です。「有量のいのち」については何の説明も要りませんが、「無量のいのち」とは何か、これが問題です。まず、個々の「有量のいのち」とは別にどこかに「無量のいのち」があるわけではありません。もしそうだとしますと「無量のいのち」には外部があることになりますからもはや無量とは言えなくなります。ということは「無量のいのち」はすべての「有量のいのち」をそのなかに含むということです。ただ、「無量のいのち」をあらゆる「有量のいのち」を包容する「入れもの」のようなものとしてイメージしますと、またもや「有量のいのち」と「無量のいのち」が別ものになってしまいます。

「無量のいのち」とは「有量のいのち」たちの縦横無尽のつながりそのものと言うべきです。どこまでも広がる網のようなものが「無量のいのち」であり、その一つひとつの結び目が個々の「有量のいのち」です。無限大の網(無量のいのち)の一つの結び目(有量のいのち)を手でつまみ上げますと、それに伴ってズラズラと他のすべての結び目が上がってくるというイメージです。個々の「有量のいのち」は一つの結び目にすぎないという点では「有量のいのち」ですが、同時に、互いに縦横無尽につながりあっているという点から言いますと「無量のいのち」でもあります。「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であるというのはそういうことです。


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