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「もうすでに」と「これから」 [「『証巻』を読む」その81]

(8)「もうすでに」と「これから」

「ほとけのいのち」に摂取不捨されたことが、かならず「ほとけのいのち」になることの「しるし」であることを見てきました。ところで本願を信受した人にとって、「ほとけのいのち」に摂取不捨されたのは「もうすでに」のことですが、「ほとけのいのち」になるのは「これから」のことです。本願を信受して「ほとけのいのち」に摂取不捨されたとはいえ、依然として「わたしのいのち」を生きていますから、それが終わりを迎えるまでは「ほとけのいのち」になることはできません。そして「わたしのいのち」を生きている以上、他の「わたしのいのち」たちとの間の相剋に苦しまなければなりません。親鸞はそのありさまを『一念多念文意』において次のように描いています、「無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」と。

としますと、ほんとうの救いは「わたしのいのち」が終わりを迎え、「ほとけのいのち」となってからはじめてやってくることになるのでしょうか。そのように考えるのが伝統的な浄土教でしたが、親鸞はそれに対して「ほとけのいのち」に摂取不捨されたそのときが救いのときであり、それ以外にほんとうの救いがあるわけではないとします。これが現生正定聚ということばが真に意味することです。このことばはしかし伝統的な浄土教の強い影響のもとで、次のように理解されることがしばしばです、ほんとうの救いはいのち終わってから「ほとけのいのち」になることにあるが、信心を得たときに救いの約束が与えられるのが正定聚になることであり、それを信じて来生の救いを待つのが正しい信心のありかたであると。現生においては救いの約束が与えられるだけで、実際の救いは来生を待たなければならないというのです。

さて、救いは信心のときに「もうすでに」与えられているのでしょうか、それとも「これから」与えられるのでしょうか。


タグ:親鸞を読む
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