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8月20日(金) [矛盾について(その24)]

 ここは大事なところですので、煩わしくてもきちんと確認しておきたいと思います。ぼくらが事実を「見る」とき、ぼくらが見るのに先だって事実があります。ところが、ぼくらが「意思する」ときは、ぼくらが意思することによってはじめて意思が姿を現します。ぼくらが意思するのに先立ってどこかに意思があり、それをぼくらがつかむのではありません。こう言ってもいい、見ることと事実は別ですが、意思することと意思とは同じです。
 ぼくらが見ようが見まいが(知ろうが知るまいが)事実は事実です。しかし、ぼくらがあることを意思しない(あることをしようと思わない)限り、その意思は決して存在しません。ぼくらは意思を(無から)創造しているのです。これが自由ということです。ですから、二つの意思が矛盾するとき、どちらが正しいかという問いは成り立ちません。正しさの基準となる事実がどこにも存在しないからです。
 さて、もうひとつの矛盾です。「事実記述の矛盾」でも「意思表明の矛盾」でもない、もうひとつの矛盾。
 この映画を作った人たちはイルカ漁を嫌悪しています。彼らにとってイルカ漁をしている漁師はおぞましい犯罪者たちです。これがこの映画の全篇を支配している通奏低音です。先回言いましたように、「イルカ漁は残酷だ」という思いがあり、それを世界の人たちに訴えようとして決定的な映像を撮ろうとしているのです。
 ところで、この「イルカ漁は残酷だ」という言明は「事実の記述」でしょうか、それとも「意思の表明」でしょうか。
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