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摂取不捨 [「『おふみ』を読む」その44]

(4)摂取不捨

最後のところに「ふたごころなく弥陀をたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふこころの一念おこるとき、かたじけなくも如来は八万四千の光明を放ちて、その身を摂取したまふなり」とありますが、これを読んで頭に浮ぶのは『歎異抄』冒頭の一文です。「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」。このふたつはぴったり重なるように思えます。

しかし、ここでもぼくの違和感センサーが起動するのです。信の一念のおこるとき「光明をはなちて、その身を摂取したまふ」(「おふみ」)と、「摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」(『歎異抄』)。同じじゃないか、重箱の隅をつつくようなことを言うな、と反発がおこるかもしれませんが、やはり神は細部に宿りたまうのです。信の一念のおこる、そのとき「如来は八万四千の光明をはなちて、その身を摂取」するのでしょうか。いえ、如来の光明は無量のはずです(第12願、光明無量の願)。十劫正覚のむかしから、一人の例外もなくみんなを照らしているはずです。信の一念のとき、その人をめがけて光明がはじめてはなたれるのではないでしょう。

としますと、信の一念のとき、何が起こっているのでしょう。

これまでまったく知らなかった弥陀の光明にはじめて気づくということです。「摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」とはそのことです。信心により、はじめて光明に摂取されるのではありません。信心により、すでに光明に摂取されていることにはじめて気づくのです。信の一念とは、十劫のむかしから光明に摂取されているという事実に気づくことに他なりません。


タグ:親鸞を読む
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