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決意表明 [「『おふみ』を読む」その46]

(6)決意表明

天邪鬼と言われるかもしれませんが、この話、あまりによくできていて、作り話のように感じてしまいます。とりわけ「いままで信じまゐらせ候はぬことのあさましさ、申すばかりも候はず。いまよりのちは、一向に弥陀をたのみまゐらせて」という表明には疑念がわいてきます。信心というのは「これからは一心一向に弥陀を信じたてまつりたいと思います」と決意表明するようなものでしょうか、何か不自然さを感じてしまうのです。それは先に摂取不捨について述べたことに関わります。

もし信心に〈よって〉弥陀の心光に摂取されるのでしたら、「そうですか、それならば、これからは一心一向に信じたいと思います」という表明が生まれるのももっともですが、信心とはすでに摂取されていることの気づきだとしますと、この言い方はいかにも不自然です。この言い方では、信じるか信じないかは自分で決めることができるようですが、信じることは気づくことだとしますと、それはもう自分のはからいを超えていて、気づいたときにはもうすでに信のなかにあるのです。

もう一度、十劫正覚の話に戻りましょう。法蔵は「若不生者、不取正覚(もし生れずは、正覚を取らじ)」と誓い、そしてこの誓いは十劫のむかしに成就したのでした。とすれば、一切衆生の往生はもうすでに約束されているということです。一人の例外もなく、みな摂取されているのです。ただ、そのことに気づいているかどうか、ここに分かれ道があるということです。

さて、ここに疑問が生まれます。真宗の教えでは、光明と名号が弥陀から与えられるだけでなく、信心もまた授けられるとされます(賜りたる信心)。では、どうして信心のある人とない人がいるのか。信心とは気づきに他なりませんが、どうして気づいている人と気づいていない人がいるのか。


タグ:親鸞を読む
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