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名聞利養を本とせず、ただ後生菩提をこととする [「『おふみ』を読む」その49]

(9)名聞利養を本とせず、ただ後生菩提をこととする

1・5も吉崎に続々とつめかける人々に疑いの目を向けていました、彼らに他力の信があるのだろうかと。そこで具体的に問題とされていたのは、その人たちが坊主にせっせと施物を届けることにより後生の安心をえようとすること(いわゆる「施物だのみ」)でした。ところが、この1・8からは、吉崎に来集する人たちの中に、後生の安心などには一向に関心がなく、「名聞利養」を目的とする輩がたくさんいたようだということが分かります。人が大勢集まっているところには何かよきことがあるに違いないと群がってくる人たち。人が人を呼び、それがいつの間にか大きな社会勢力に成長して世の耳目を集めるようになります。

蓮如としては、そのことが災いのもとにならないかという不安があったことでしょう。既存のさまざまな勢力から疎ましく思われたり、場合によっては利用しようとされたりするのは百害あって一利なしと考えたに違いありません。そこで吉崎御坊への出入りを制限し、純粋な念仏の道場としての一線を守ろうとしたと思われます。「名聞利養を本とせず、ただ後生菩提をこととする」ということばにそれがよくあらわれています。さてしかし、「名聞利養」の世界と「後生菩提」の世界をきれいに分けることができるかどうか、ここには深く考えなければならない問題が潜んでいます。

道元のように山深く仏法の悟りをめざす世界を確立しようというのなら話は別ですが、在家仏教を標榜する浄土真宗にとっては、日々「名聞利養」の世界にどっぷりつかっている人たちが、そのまっただ中で「後生菩提」を希求する道を探らなければなりません。吉崎御坊を永平寺のように聖なる世界として俗界から隔離しようというのは土台無理と言わなければなりません。実際、蓮如はこの「おふみ」から2年も経たないうちに吉崎から退去せざるをえなくなります。「名聞利養」の世界のただ中で「後生菩提」を仰ぐという「二河白道」の狭い道をどう歩めばいいか、これは蓮如にとってのみならず、念仏行者すべてにとっての難題と言わなければなりません。


タグ:親鸞を読む
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