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10月28日(木) [矛盾について(その92)]

 森岡氏は「ペルソナ」ということばをよりどころにしようとしているようです。脳死の人はもはや普通に生きているとはいえず、さりとて目の前にあるコップのようなモノでもありません。そこで、和辻哲郎からヒントを得たそうですが、それを「ペルソナ」として捉えることで何かが見えてくるのではないかということでしょう。コップに声をかけようとは思わないが、脳死の人に声をかけたくなるのは、そこに「ペルソナ」が現われているからだと。彼は写真(遺影など)に向かって「ただいま」などと挨拶するのも、そこに「ペルソナ」が立ち現われているからだと言います。
 さてしかし、あるものには声をかけるが、あるものには声をかけようとは思わないのは、そこに「ペルソナ」が現われているかどうかの違いだというのは、説明になっているでしょうか。あるものに声をかけるのは、そこに声をかけたくなる何ものかがあるからに違いありません。しかし、それに「ペルソナ」という名前をつけても(あるいはそれを「たましい」と言おうが「いのち」と言おうが)、それによって何か新たなことが分かるわけではありません。ぼくらは未知のものに出会ったとき、それに名前をつけることで分かったような気になってしまうところがあります。
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