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5月15日(火) [矛盾について(その650)]

 「わたし」は他ならぬこの自分であると同時に、みんな一様に「わたし」ですから、そこに何かしらの共通性が意識されています。
 それは何でしょう。
 どんなときにもっとも強く「わたし」を意識するかを考えてみましょう。何か大事なことが自分の知らないところで決められてしまった。自分も関係することなのに、自分だけ蚊帳の外に置かれて勝手に決められ、その結論だけが伝えられたようなとき、非常に不愉快になります。
 「わたしはどうなるんだ!」
 木偶の坊ということばが浮かびます。あるいはロボットでしょうか。ただ突っ立っているだけ、あるいは、プログラムのままに動くだけ。そこには「わたし」というものがありません。「わたし」がこうするということが一切ない。
 こんなふうに「わたし」がないがしろにされると無性に腹が立ちます。木偶の坊あつかいされたり、ロボットのように見なされたりするのが我慢できないのです。「わたしはどうなるんだ」とは、「わたしの意志はどうなるんだ」ということです。「わたし」がないがしろにされるとは、「わたしの意志」がないがしろにされることです。
 「わたし」とは「意志」ではないでしょうか。
 自分を「わたし」と言い、他の誰もが自分のことを「わたし」と言うのを承認するということは、「わたし」というものはみな「意志あるもの」と認めているのではないでしょうか。

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