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11月26日(月) [『歎異抄』を読む(その194)]

 先の文に続いてさらにこう言います。
 「法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたへたり。この一如よりかたちをあらわして、方便法身とまふす御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらわれたまふ御かたちおば、世親菩薩は尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまへり。」
 仏は色も形もなく、思いうかべることも言いあらわすこともできないというのです。いわく言いがたいもの(一如)がこの微塵世界、一切衆生の心に満ち満ちています。それに形を与えたものが、法蔵菩薩の誓願だと言うのです。「そのままで救われている」という声です。「南無阿弥陀仏」の呼び声です。
 仏は元来色も形もなく、いわく言いがたいものだけれども、それに形を与えると「南無阿弥陀仏」という呼び声になり、それが一切衆生の心に満ち満ちているのです。勿論ぼくらの心の中には煩悩がひしめいています。でも、「南無阿弥陀仏」の呼び声が―何度も言うようで恐縮ですが、それは「そのままで救われている」という声であり、「おかえりなさい」という声です―がふと聞こえますと、不思議なことに喜びが心にあふれ、いつの間にか煩悩の苦しみが和らいでいるのです。
 阿弥陀仏は見ることはできませんが、「南無阿弥陀仏」の声として聞こえてくるのです。

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