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12月19日(水) [『歎異抄』を読む(その217)]

 では後序の最後の部分です。ここで「歎異抄」という書名の由来を述べています。唯円の最後のことばをじっくり味わうことにしましょう。
 これさらにわたくしのことばにあらずといへども、経釈のゆくぢもしらず、法文の浅深をこころえわけたることもさふらはねば、さだめておかしきことにてこそさふらはめども、古親鸞のおほせごとさふらひしをもむき、百分が一、かたはしばかりをもおもひいでまいらせて、かきつけさふらふなり。かなしきかなや、さひはひに念仏しながら、直に報土にむまれずして辺地にやどをとらんこと。一室の行者のなかに信心ことなることなからんために、なくなくふでをそめて、これをしるす。なづけて歎異抄といふべし。外見あるべからず。
 これまで書いてきましたことは、何ひとつとしてわたしが勝手に言っていることではありませんが、経典や論釈の道理を知っている訳でもなく、法文の浅い深いを見分けることができる訳でもありませんから、おかしいところもあると思いますが、親鸞聖人からお聞きしたことばの百分の一、ほんの一部ですが思い出して書き付けてまいりました。幸いにも念仏させていただきながら、真実の浄土に行けず辺地に留まらなければならないのは悲しいではありませんか。同門の仲間の中で異なった信心をもたれないように、泣く泣く筆を執ってこれを書きました。歎異抄と名づけたいと思います。外に公表すべきではありません。

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