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2月18日(月) [はじめての親鸞(その53)]

 生きるということは生き続けようとすることです。生きることを阻止されそうになったら、ぼくらは必死に抗います。ですから、生きるということは生きることを守ることに他なりません。生きる内部にあることは、内部にあり続けようとすることです。
 さて、生きる内部にある人は、その外部を知りませんから、光を知らない人が闇とは何かを知らないのと同じように、生きる内部とは何かを知らないと言わなければなりません。内部とは何かを知らないまま、内部にい続けようとしているのです。これが生きることに閉ざされている姿です。
 ここでちょっと〈註〉です。生きることは生き続けようとすることだといいましたが、その一方でみずから死を選ぶ人もいます。日本では年に3万人にものぼりますが、そうした生き続けようとしない人たちをどう考えるべきでしょう。
 もちろん彼らも生き続けたいのだろうと思いますが、いろいろな事情でそれを断念せざるを得ない。しかし、生き続けようとしないには違いありません。生き続けたいのだが生き続けようとしないのです。これをどう理解したらいいか。
 それは食べ続けたいのだが食べ続けようとしない(例えば減量のため)のと同じではないでしょうか。ですから決して生き続けようとする志向性がなくなった訳ではないと思います。
 ただ、食べようとするのは、それを中断してもまた再開できるのに対して、生き続けようとするのは、一旦中断してしまうと、もう二度と再開できないという違いはあります。それでも中断せざるを得ないというところが、自殺の何ともやるせないところです。

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