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2013年8月9日(金) [はじめての『教行信証』(その12)]

(4)聞くということ
 前にこう言いました、「ただ念仏して陀仏にたすけられまひらすべし」という法然のことばを信じるだけなら、どうして『教行信証』を書く必要があったのかと。たとえ念仏して地獄に落ちたとしても後悔しないと言うのなら、どうして経典や論・釈に頼らなければならないのかと。この疑問は、経典や論・釈は自分の主張を根拠づけるために参照しなければならないものという前提から生まれてきます。
 ぼくらはしばしば自分の主張を通そうとして権威ある書物に依拠します、「ほら、誰それの何々という本にこう書いてあるだろ」と。これは自分が掴み取った知識を権威ある書物によって裏打ちしようとしているのです。哲学の本を読んでいましても、「ハイデッガーがこう言っている」と述べることで、さも自分の正しさが証明されたかのような顔をしている叙述にお目にかかります。
 親鸞も「ただ念仏して陀仏にたすけられまひらすべし」という主張を正当化しようとして、経典や論・釈を引こうとしているのでしょうか。
 もしそうでしたら、先ほど『歎異抄』に登場してきた関東の弟子たちと変わらないと言わなければなりません。彼らは、本当に「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」と信じるだけでいいのだろうか、経典や論・釈には何か大事なことが書かれているのではないだろうか、それを知ることによってはじめて「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」という教えの正しさが納得できるのではないか、と思っていたに違いありません。つまりは、「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」という教えが正しいのかどうか、その根拠を確認しようとしているのです。

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