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驚くということ [『末燈鈔』を読む(その84)]

(3)驚くということ

 「宗」と言い「体」と言っても、要するに誓願と名号は「ひとつ」ですから、両者がどう違うかをあれこれ詮索するのは「わがはからひ」にすぎない、これが親鸞の言いたいことです。
 しかし「誓願をはなれたる名号も候はず。名号をはなれたる誓願も候はず候。かくまふし候も、はからひにて候なり」というように言われますと、もう黙りこまざるえなくなるのではないでしょうか。ぼくがいまここでしていることもみな「わがはからひ」ではないかと思えてきます。
 親鸞はよく「仏智不思議」と言います。ここでも「たゞ不思議と信じつるうへは、とかく御はからひあるべからず」と述べています。「気づき」と「はからひ」、あらためて考えさせられます。
 考えてみますと、「気づき」には驚きが伴います。何かに「気づく」とは、予期せぬことにふと気づくのですから、そこには多かれ少なかれ驚きがあるでしょう。「ああ、あなたでしたか、気づきませんでした」と言うとき、そこには「ああ、びっくりした」という思いがあります。そして「どうしてここにあなたが?」と不思議に思っています。
 「未知との遭遇」と言います。思いもかけないことにばったり出あうことですが、この未知ということばには注意が必要です。思いもかけないことは、もちろん知っているわけはありませんが、しかしまだ知らないとも言えません。知るも知らないもありません、そもそも存在していないのですから。
 何かを知っているとか知らないとか言うときは、どのようなかたちであれ(現実的であれ、可能的であれ)、その何かが存在していることは了解しています。ただそれが何であるかを知っているか知らないかということです。だから、知ることにはさほど驚きはありません。ほんとうの驚きは思いもかけないことがそこにあることにはっと気づいたときに起こります。


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