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折伏と伝染 [「『おふみ』を読む」その52]

(12)折伏と伝染

しかし争いを避けながら、どうして教えを広めることができるのでしょう。「外相にそのいろをあらはさ」ないようにしながら、どのようにして教線が広がっていくのでしょう。突然ですが、曇鸞の卓抜な譬えが頭によみがえりました。「たとへば火、木よりいでて、火、木をはなるることをえず。木をはなれざるをもてのゆへに、すなはちよく木をやく。木、火のためにやかれて木すなはち火となるがごとし」(『論註』)。これは曇鸞が『観経』の「是心是仏」つまり「心のほかに仏ましまさず」を注釈するときに用いている譬えですが、これを念仏の教えが広まることの譬えとして読むことができないでしょうか。

火が念仏の教えで、木が人のこころです。火はその勢いが盛んになりますと、自身の力で周囲の木に燃え移っていきます。火は木に燃え移ってやろうなどと思っていなくても、おのずと木に燃え移っていく。同じように、念仏の教えは、もとからそなわっている力で、おのずから人のこころに移っていく。広げてやろうなどと思わなくても、火があたりに燃え広がるように、あたりに広がっていくのです。そう言えば、金子大栄氏はどこかで、念仏の教えはインフルエンザのようなものだと言っていました。勝手に伝染していくのだというのです。

折伏の思想と伝染の思想。

前者の場合、まず「わたし」がいて、その「わたし」が「法華一乗の教え」をわがものとします。そして「わたし」がその教えを他の人たちに布教していきます。人々を説得し折伏するのです。ところが、後者においては、まず「念仏の教え」がやってきて、「わたし」を虜にしてしまいます。念仏の火が「わたし」に燃え移るのです。そしてその火はまた周囲に燃え広がっていく。勝手に伝染していくのです。前者が自力の思想で、後者が他力の思想であるのは言うまでもありません。


タグ:親鸞を読む
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