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本願のリレー [『正信偈』を読む(その36)]

(2)本願のリレー

 これまでの十八句(法蔵菩薩因位時~必至滅度願成就)は弥陀如来のことでした。これかの二十四句(如来所以興出世~難中之難無過斯)は釈迦如来について述べられます。
 ですから「如来所以興出世」の如来は釈迦如来のことだと理解したいところですが、親鸞自身の解説を読みますと、釈迦如来だけでなく、広く諸仏を指していることが分かります。これまで世に無数の諸仏が現われたもうたのは、ただ弥陀の本願を一切衆生に説き聞かせんがためだということです。そして釈迦如来も諸仏の一人として弥陀の本願を説いているというのです。
 このように親鸞が言うもとは、もちろん『無量寿経』にあります。
 『無量寿経』は阿難(アーナンダ)が釈迦からこんなふうに聞いたという形式(「われ、かくのごとく聞けり」)で説かれています。これは他の大乗仏典と変わるところがありませんが、おもしろいのは、釈迦が阿難に説き聞かせるのが弥陀の本願についてだということです。
 第2章でみましたように、法蔵菩薩が世自在王仏のもとで修行し、四十八の誓願をたてられた、そしてそれが十劫もむかしに成就し、法蔵は阿弥陀仏となられた、と語るのです。つまり、釈迦もまた「われ、かくのごとく聞けり」と語っているのです。諸仏からそのように聞いたと。
 ここに本願はリレーされていくものだという構造が見て取れます。釈迦は釈迦自身が悟った真理を説くのではなく、諸仏からリレーされてきた弥陀の本願をまた次へとリレーしていくだけだということです。釈迦が何か新しいことを始めたのではなく、ただこれまで伝えられてきたことをまた後世に伝えていくだけだとしますと、何だか釈迦の値打ちが下がるような気がします。実際、先ほど見ましたように、釈迦は諸仏の一人とされるのです。


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