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第十七の願 [『唯信鈔文意』を読む(その59)]

(14)第十七の願

 これまで「但有称名皆得往 観音勢至自来迎(ただ名を称するのみありて、皆往くことを得。観音・勢至おのづから来り迎えたまふ)」について長い注釈がほどこされてきたのですが(本文3~6)、ここでもう一度、その前の二句「如来尊号甚分明 十方世界普流行(如来の尊号は甚だ分明なり。十方世界に普く流行せしむ)」に戻り、「おほよそ(尊号が)十方世界にあまねくひろまることは」と論じていきます。前に第十七願に触れなかったことに気づき、ここで改めてもとに戻ったものと思われます。
 そもそも聖覚がこの法照の文を引用したのは、第十七願のもつ意味を明らかにしようとしてのことですから、それに触れずじまいなのは手落ちになるからです。第2回のところでも言いましたように、法然も言及していない第十七願に重要な意味を見いだしたのは聖覚の慧眼というべきです。親鸞はそれをここで確認しようとしているのです。
 第十七願とは「十方無量の諸仏にわがなをほめられむとなえられむとちかひたまへる」もので、それによって「一乗大智海の誓願成就したまへる」ことになるのです。つまり、弥陀の本願名号を一切衆生に聞かしめんがために、「十方無量の諸仏にわがなをほめられむとなえられむ」と誓い、それによってはじめて一乗大智海、つまり本願が成就したということです。
 親鸞はしばしば本願を海に譬えますが(本願海、ここでは大智海)、本願が海のような広がりを持つためには「十方無量の諸仏の称名」が必要だということです。称名とは、われらが称えるものである前に、十方無量の諸仏が称えるものだということ、『教行信証』行巻はその論証に費やされています。
 それにしても十方無量の諸仏とは何でしょう。一体だれのことか。


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