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修行とニルヴァーナ [『一念多念文意』を読む(その112)]

(4)修行とニルヴァーナ

 そして中村元氏はさらにこう言います、「(古い注釈では)ニルヴァーナを目的と見なし、戒などの実践を手段と見なしている。後代の教義学はみなこういう見解をとっている。しかしこういう見解によるならば、人間はいつになっても、戒律の完全な実践は不可能であるから、ニルヴァーナはついに実現されないであろう。この詩の原文によって見る限り、学び実践することがニルヴァーナであると漠然と考えていたのである、と解することができよう」と。
 中村元氏の言われる通りだとしますと、道元の「修証一等」に通じる思想が仏教の最初期にすでに顔を出していることになり、実に興味深いと思います。修行をしてニルヴァーナに至るのではなく、修行すること(学ぶこと)がそのままニルヴァーナであるということです。先の文の少しあとに「妄執をよく究め明かして、心に汚れのない人々―かれらは実に『煩悩の激流を乗り越えた人々である』と、わたし(ゴータマ)は説くのである」とありますが、この「妄執をよく究め明かす」ことが、そのまま「煩悩の激流を乗り越える」ことであるわけです。
 中村元氏の解説の中で、後に整えられた教義では、修行を「手段」、ニルヴァーナを「目的」と捉えていると言われていましたが、これを修行が「原因」で、ニルヴァーナが「結果」というように言い換えることもできるでしょう。そうしますと、「縁起」という仏教の根本教義をどう捉えるかということに絡んで極めて重要な問題をうかびあがってきます。縁起については前に詳しく検討したことがありますが、「修と証」に絡めて改めて考えておきたいと思います。
 「Aに縁ってBが起こる」というのが縁起ですが、これは「Aが原因となってBという結果が生じる」と同じかということです。

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