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おりにしたがふて、ときどきも [正信偈と現代(その101)]

(11)おりにしたがふて、ときどきも

 「常に如来の号を称して」の「常に」には注意が必要です。「常に」と言いますと「四六時中」というニュアンスですが、ぼくらは「常に」本願を憶念し、如来の号を称するわけにはいきません。あるとき本願を憶念し、南無阿弥陀仏が口をついてでたかと思うと、そのすぐ後につまらないことに腹を立て、本願も念仏もどこかに行ってしまうことが普通だからです。ここで「常に」と言われるのは、本願・念仏は、いったんそれに遇うことができますと、もう決して消えてしまうことはないと受けとるべきでしょう。不退ということです。
 親鸞は『一念多念文意』において善導のことばを注釈するなかで、「恒」と「常」を対比して、こう言っています。「恒」は「おりにしたがふて、ときどきも」ということだが、「常」は「ときとしてたえず、ところとしてへだてず」ということだと。そしてわれらには「恒」はあっても「常」はないというのですが、これをお借りしますと、われらは「おりにしたがふて、ときどきも」本願を憶念し念仏しますが、「ときとしてたえず、ところとしてへだてず」に本願・念仏に浸っていることはないということです。
 しかし、ひとたび本願に遇うことができ、「永遠のいま」にふれますと、もう再びそれ以前の状態に戻ることはありません。
 「永遠のいま」にふれたからといって煩悩がなくなるわけでも、明日を思い煩わなくなるわけでもありませんから、その意味では以前と何も変わらないということもできますが、でも微妙に違う。これまで同様、ものを貪り、つまらないことに怒り、愚痴をこぼして生きているのですが、何というか、こころの底に深い安心があるのです。貪り、怒り、愚痴をこぼしつつ、そのことに「なんともお恥ずかしい人生で」という思いがあり、それが不思議な安心を与えてくれる。それが「おりにしたがふて、ときどきも」本願を憶念し、如来の号を称えるということです。

                (第11回 完)

タグ:親鸞を読む
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