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第1段本文 [親鸞の手紙を読む(その15)]

        第2回 笠間の念仏者の疑ひ、とはれたる事

(1)第1段本文

 『末燈鈔』の第2通です。これには「笠間の念仏者の疑ひ、とはれたる事」という表題がつけられています。4段に分けて読んでいきます。まずは第1段。

 それ浄土真宗のこころは、往生の根機に他力あり、自力あり。このことすでに天竺の論家・浄土の祖師の仰せられたることなり。
 まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて、余の仏号を称念し、余の善根を修行して、わが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて、身口意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せむとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人の仰せごとにてありき。義といふことは、はからうことばなり。行者のはからひは自力なれば、義といふなり。他力は、本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。
 
 (現代語訳) 浄土の真実の教えの立場からみますと、他力をたのんで往生する人もいれば、自力をたのんで往生しようとする人もいます。この自力・他力につきましてはすでにインドの論家たち、浄土の祖師たちが言われていることです。
 まず自力と申しますのは、人それぞれの縁に従って、阿弥陀仏以外の仏の名を称えたり、あるいは念仏以外のさまざまな修行をして、自分自身をたのみとし、自分でさまざまにはからいながら、行いや思いの乱れをつくろい、みごとに心を整えて浄土へ往生しようと思うのを自力と言うのです。また他力と申しますのは、阿弥陀如来の四十八のお誓いの中でも特に選び取られた第十八の念仏往生の本願を信じることを他力と言うのです。本願は如来のお誓いですから、他力には義のないことを義とすると法然上人は言われたものです。義と言いますのは、はからうということばです。人がはからうのは自力ですから、それを義というのです。他力といいますのは、本願を信じましたら必ず往生できるのですから、何もはからうことはないということです。

タグ:親鸞を読む
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