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行と信 [『教行信証』精読(その25)]

(13)行と信

 行と信は一体不離であるにもかかわらず、なぜ行巻と信巻に分けられたかを考えるに当たり、「行巻」の末尾に正信偈がおかれ、それにつづく「信巻」には特別に序が設けられていることに着目したいと思います。まず正信偈ですが、行巻の末尾におかれているものの、その内容からして、行巻のまとめというよりも、『教行信証』全体の要約と言うべきものです(蓮如はそこに目をつけ、正信偈の読誦を日々の勤行の中心に位置付けたのでしょう)。つまり正信偈においては行と信はまったく渾然一体であり、行巻全体が信と一体不離である行について説かれているのです。
 ところが、その後に「信巻」がおかれ、しかも他の巻にはない序がつけられています。その序にこんな文言が見えます、「真心(真実の信心)を開闡(かいせん、ひらけおこること)することは、大聖(釈迦のこと)矜哀(こうあい)の善巧(ぜんぎょう)より顕彰せり。しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心(じしょうゆいしん、要するに自力のこと)にしづんで、浄土の真証を貶す」と。真実の信心は「如来よりたまわりたる」ものであるにもかかわらず、この頃の人々はそれを自力の信心にしてしまっていると言うのです。そこで「愚禿釈の親鸞」(親鸞は特に大事なことを言うときには、このように己の名前を出します)が、真実の信心について説かれた文類を集めたいと言います。
 行と信はひとつのものとして「如来よりたまわる」にもかかわらず、ともすると念仏している人に真実の信心が欠けていることがあり、したがってその念仏が自力の念仏になってしまっていることがあります。そのことを親鸞はこんなふうに述べています、「真実の信心は、かならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」(信巻)と。真実の信心があれば、それにはかならず念仏が伴うが、一方、念仏があるからといって、そこに真実の信心がないことがあるというのです。そこで、あえて信巻を設け、「諸仏如来の真説に信順して、論家釈家の宗義を披閲」し、真実の信心、如来よりたまわりたる信心とは何かについて考えていきたいというわけです。
 このように行と信は一体不離ではあるものの、他力の信心とは何かを明らかにするためにあえて信巻が設けられたと考えられます。

                (第2回 完)

タグ:親鸞を読む
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