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過去の因縁 [『教行信証』精読(その65)]

(7)過去の因縁

 「教巻」で引かれた『大経』・『如来会』・『平等覚経』の文に、仏にお遇いすることは、優曇華が三千年に一度咲くのと同じように稀なことで、難しいことだという趣旨のことばがありました。いまの阿闍世王太子と五百の長者の子たちについての話も同じ意味をもつと考えていいでしょう。阿闍世王の太子と五百の長者の子たちがいま弥陀の本願に遇うことができたのは、かれらがこれまで無央数劫の間、無数の仏たちを供養してきて、前世にはすでに釈迦の弟子となっていたからこそであるというのは、弥陀の本願に遇うことは如何に稀で困難なことであるかと言っているのです。
 過去の因縁ということ(宿縁)に意を潜めてみましょう。過去の因縁といいますと、たとえば「親の因果が子に報い」などという俚諺が頭に浮びます。
 釈迦は「これあるに縁りてかれあり、これ生ずるに縁りてかれ生ず」と言い、これが縁起の法として仏教の中核におかれるようになりました。これは、何ごとも無数の因と縁のつながりのなかにあるということを意味し、したがって過去の無限の因縁の上に今の自分がいるということであって、親が過去になしたことが、子のありようを規定するということではありません。親が過去になしたことも、子の今日とつながる一つの因縁ではありますが、それが子のありようを一義的に決定しているわけではありません。
 そう言えば、NHKテレビでおもしろい番組がありました。人工知能(AI)にさまざまな情報を無差別に入力して、それぞれのアイテム間がどのようにつながっているかを数値化してみようという意欲的な番組でした。
 そのタイトルを忘れてしまい、内容もほとんど消えてしまいましたが、うっすらと残っているのは、ある市の病院の病床数が減ると、住民の健康度が増すという繋がりが見いだされたり、バナナの購買量が増えるという数字が示されました。そこで出演者がその繋がりにどんな意味があるのか、さまざまに思いを凝らすのですが、それを見ていてぼくの頭に浮んだのは「風が吹くと桶屋がもうかる」ということばでした。つまり、無数のアイテムはそれぞれが縦横無尽に繋がりあっているわけで、その中から、たとえば病床数とバナナの購買量だけの関係を取り出してもほとんど意味がないということです。

タグ:親鸞を読む
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