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二三渧のごとき心、大きに歓喜せん [『教行信証』精読(その81)]

(7)二三渧のごとき心、大きに歓喜せん

 親鸞の心のうちを忖度してみるとき、ぼくの頭に浮ぶのは「信巻」のあの述懐です。「悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快(たの)しまざることを、恥づべし傷むべし」と。正定聚の数に入ったということは初地に至ったということに他なりませんが、そんな自分が「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して」いる。何ということだ、これまでと何の違いもないではないか、という慚愧の声を上げているのです。
 ここには、初地に至ったからといって、大海の水のような苦しみはこれまでと何の変わりもないではないか、という思いがあふれだしています。
 親鸞にとって正定聚のかずに入るということは、煩悩の苦しみが消えることではありません、むしろ煩悩の苦しみに直面するということです。これまでは「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して」いながら、それを煩悩の苦しみとはついぞ思っていませんでした。むしろそれが人生であると思って楽しんでいたのです。ところが弥陀の本願・名号に遇うことをえて、はじめて「あゝ、これまでは煩悩の苦しみを人生の楽しみと勘違いしていたのだ」と気づきます。ただそれだけのことで、大海の水のような苦しみには何の変化もありません。
 ところがこの「あゝ、これは煩悩の苦しみだ」という気づきが驚くべき作用をするのです。「二三渧の苦すでに滅せんがごとし。大海の水は余のいまだ滅せざるもののごとし」ですが、その「二三渧のごとき心、大きに歓喜」するのです。たった二三滴の苦しみが消えただけで、あとはそっくりそのままですが、それが大きな歓喜となるというのです。ここに苦しみはそれが苦しみであると気づくことで喜びに転じるという不思議があります。そこをとらえて言いますと、「この菩薩の所有の余の苦は、二三の水渧のごとし」となります。もう二三滴の苦しみが残るだけで、あとは一面の喜びとなるのです。

タグ:親鸞を読む
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