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人知と仏智は実はひとつ [親鸞最晩年の和讃を読む(その76)]

(3)人知と仏智は実はひとつ

 人知と仏智は二つで一つなどと言いますと、当然こんな疑問が出されるでしょう。「ぼくは人知というのはよく分かるが、仏智なんて何だか知らない、そういうものがあるかどうかも分からない。これまでの話では、人知の世界は因果の世界で、仏智の世界は縁起(本願)の世界ということだが、ぼくは因果の世界というのは手に取るように分かるけれども、縁起(本願)の世界などと言われても茫漠としてよく分からない。きみは人知だけがあって仏智がないということはありえないと言う。しかしぼくには人知だけがあって仏智はないのだが」と。
 お答えしましょう。人知のあるところ仏智があると言いましたが、それを正確に言い直しますと、「あゝ、これは人知だ」という自覚のあるところ、その裏にかならず「仏智がある」という気づきがあるということです。こちらに人知の世界(因果の世界)があり、あちらに仏智の世界(縁起の世界)があるのではありません。世界はただ一つ、目の前にあるこの世界だけですが、われらはその世界に対するとき、そこに因果の秩序を持ち込んで見ているということです。そうしますとそこに因果の世界が浮びあがるのは当たり前のことです。そしてそのように世界を見ているという自覚があるところ、われらがそのように見る前の世界があるという気づきがかならず伴っています。その世界を仏智の世界(縁起の世界)とよんでいるのです。
 「しかし」とさらに疑問が出されるでしょう。「何を根拠にわれらが因果の秩序を持ち込んで世界を見ているなどと言えるのか。世界にもともと因果の秩序があり、われらは世界からそれを汲み取っていると考える方がよほど自然ではないか」と。これは前にいちど議論したことですが(ゼノンのパラドクス)、また別の角度から検討したいと思います。手がかりになるのが『歎異抄』後序の「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなき」です。われらは何が善で、何が悪かを見通しているような顔をしているが、いったい誰がほんとうにそれを知っていようか、というのです。

タグ:親鸞を読む
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