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仏力をもつてのゆゑに [『観無量寿経』精読(その18)]

(6)仏力をもつてのゆゑに

 ここでもう一度「アミタのいのち」を「観る」ことについて考えておかなければなりません。そもそも「ミタのいのち」が「アミタのいのち」を「観る」ことは不可能であるということについてです。有限が無限を捉えることはできないということ。物理学者は、自分の立てた数式の解が無限と出たときには、その数式のどこかに欠陥があると考えるという話を聞いたことがあります。有限である人間の出す解が無限であることはありえないということです。
 釈迦は「無我」を悟ったとされますが、釈迦もまた一人の「われ」である以上(釈迦はもともと「われ」ではないとしますと、話は別です)、「無我」を捉える(ゲットする)ことができるはずがありません。「われ」が「無我」を捉えることほど荒唐無稽なことはないでしょう(「われ」が「われはない」ことを捉えるというのはいったい全体どういうことでしょう)。としますと、釈迦は何をしたのかということになりますが、「無我」の悟りはないことを悟ったのです。人間はどこまでも「われ」に囚われていることを悟ったのです。いま南直哉氏の『超越と実存』を読んでいますが、彼が言いたいのもそのことであると知り、共感を覚えました。
 さてでは釈迦が「いま韋提希および未来世の一切衆生を教へて西方極楽世界を観ぜしむ」というのはどういうことでしょうか。
 結論を先取りしますと、韋提希や未来世の一切衆生が「己の力をもつて」して西方極楽世界を観ることは金輪際できず、「仏力をもつてのゆゑに」はじめて「アミタのいのち」に遇うことが可能であるということを明らかにしようとしているということです。少し前のところで釈迦の「もろもろの譬えを説き」ということばに注目しましたが、「譬えを説く」ということばのこころは、「仏力をもつてのゆゑに」はじめて「アミタのいのち」に遇うことができることを明らかにするための〈方便〉として、「アミタのいのち」を「観る」方法を説くと言っているということです。

タグ:親鸞を読む
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