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出離の縁あることなし [『観無量寿経』精読(その46)]

(6)出離の縁あることなし

 曽我量深氏はどこかで、この無縁の大悲について、これは「機の深信」にある「出離の縁あることなし(無有出離之縁)」の「無縁」と深く対応していると述べています。仏の無縁の大悲は、われらが出離に無縁であるからこそはたらくのだということです。仏の大悲の無縁とわれらの出離の無縁とはひとつにつながっているというのです。彼の慧眼にはもう感服するしかありません。どういうことか、彼の言わんとするところを後追いしておきましょう。
 善導は「信ずる」ことに二つの面があるとして、その一つが「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず」ることであり、そしてそれは同時に「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず」ることであると教えてくれました(『観経疏』「散善義」)。前者は「機の深信」、後者は「法の深信」とよばれ、この二つは二つにして一つであり、「機の深信」のあるところ必ず「法の深信」があり、「法の深信」のあるところ必ず「機の深信」があると教え継がれてきました。善導はこれだけでも浄土教の歴史の中で永遠に輝いています。
 さて曽我量深氏が言うのは、われらは「曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし」であるからこそ、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して」くださるのだということです。われらが出離に縁のない衆生であるからこそ、そのようなものに止むにやまれずかけられるのが如来の無縁の大悲であると言うのです。われらには救われるべき衆生縁(人間的な縁)も、法縁(仏法の縁)もありません。そんな無縁の衆生に、無縁の大悲がはたらくのです。これをわれらの側からいいますと、われらが仏の無縁の大悲に遇うことができたときには、われらはどこまでも苦海から出離する縁のない罪悪生死の凡夫であるという気づきがあるということです。
 われらに「出離の縁あることなし」という気づきがあって、はじめて仏の無縁の大悲に遇うことができるのです。

タグ:親鸞を読む
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